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良識はワルとバカに勝てない?(【読書日記】『ブレグジット秘録』)

割引あり

英国がEU離脱を国民投票で決したという衝撃的なニュースが伝わってから、もう8年近くになる。一応はそう言ってみたが、実は、その頃の自分は半廃人であったから、ぜんぜん衝撃を受けなかった。明日世界が壊れようともどうでもいいやと思ってたから、報道なんかにも注意を払わなかった。だから、いったい全体何が起きたのか、今でもちょっと怪しい知識しかない。

しかし、「もしトラ」が実現してしまって、米国でも似たようなことが繰り返されそうな気配である。70年代以来死を宣告されながらしぶとく生き残っていたリベラルな国際経済秩序の寿命が、来年こそ尽きるかもしれない。奇しくも、ブレグジットはトランプ氏の初当選と同時期に起きた。今までリベラルな国際経済秩序の後ろ楯となってきた新旧の覇権国の国民が、揃ってそれに背を向けたとも言えるわけで、それが「衝撃的」であったかと思う。だが、事情をよく知らないので、自分はまだその衝撃をまともに受け切れてない。

今の自分は古い本ばかり好んで読む人間だが、たまたま図書館の書棚にこんな本を発見して、読んでみるかなとうという気になったのは、そうした負い目があったからである。政治ストラテジストによる敗因分析みたいのを期待してたんだが、ちょっとちがった。でも、まあ面白く読めたので、ここで紹介してみる気になった。著者のクレイグ・オリヴァーさんは、当時のキャメロン首相の広報担当補佐官であった人だから、言ってみれば敗軍の参謀である。その彼がブレグジット・キャンペーンの内幕を語ったのが本書である。

いわゆる「スピン・ドクター」と呼ばれる世論操作のプロである。選挙に勝つという目的のためなら手段を選ばないマキャヴェリアンかと思ったら、意外と真面目な人だった。元はBBCワールド・ニュースの編集などを勤めた報道畑の人らしい。よき上司であるキャメロン首相に忠誠を尽くし、また私的利害よりもお国の利益を優先する良識派の一人として、自分やその仲間たちを描いてる。

負けた側であるから、当然悔しさがにじむ。しかも、お互いに正々堂々と戦って敗れたとは考えてない。キャメロン首相を筆頭とする良識派が、ワルやバカによって裏切られ誤解されたという書きぶりである。

戦犯は複数いる。第一に、EU残留を言葉のうえでは支持しながらも、残留キャンペーンには本腰を入れないコービン党首ら労働党執行部。理由は、敵に塩を送りたくない。キャメロン首相に派手に失敗してもらえれば、労働党が政権を奪還するチャンスがめぐってくる。そういう思惑から、残留キャンペーンに積極的に係わらない。そのため、労働党が残留を支持してるということさえ知らない労働党支持者が過半数だった。

第二に、新聞・テレビというマスメディア。とくに、長期の労働党支配から政権を奪還したキャメロン党首を支えてきた保守系メディアの多くが、離脱支持に傾き、政権を攻撃した。メディアを通じた空中戦の責任者であったオリヴァーさんは、当然こうした保守系メディアと深いつき合いがあったはずだから、ちょっと裏切られたような気分になってる。もちろん、離脱を支持するなとは言えないんだが、オリヴァーさんの苦情はこうである。メディアは国民が正しい判断を下せるような重要な情報を正確に伝えるべきなのに、見出しになるようなニュースばかりを優先する。良識ではなくて煽動的な内容、政策論ではなくて党内内紛や政局を好む。タブロイド紙だけじゃなくて高級紙やBBCでさえそうである。

しかし、著者にとっての主犯は、どうやらゴーヴ司法相、ジョンソン市長、メイ内務相といった保守党重鎮である。彼らは首相の盟友であり、その庇護を受けていたにもかかわらず、自らの権力欲のために首相を裏切った。しかも、そのために、国の利益を損なうような卑劣なプロパガンダさえ辞さなかった。裏で首相を攻撃しながらも、恥知らずにも閣内に居残って、いかにも親し気に閣議になんか顔を出す。党の分裂を懸念する首相の配慮を利用しながら、党の分裂を進めている。

むろん、それぞれの政治家にだって、何が国のためになるかを自分で決める権利はある。「離脱を支持するな」とは言えない。だが、著者はこう考える。そうであるなら、まず閣僚を辞任してから行なうべきである。そうしないのは、政治的野心からである(だけども、たぶん首相に取って代わる勇気はない)。さらに、彼らは離脱を唱えるが、離脱後の青写真をまったく提供しない。そんなもの描けるわけがない。英国経済はEU市場と統合してしまっている。そこから離脱したら、何が起こるか誰にも予想がつかない。だから、着地点を示さずに、ただ飛び下りろと言うしかない。そんな無茶ができるのは、自分たちも離脱の責任を取るつもりがない。尻ぬぐいはキャメロン首相か誰かにやらせて、自分はその漁夫の利を得るだけだと、そう高をくくってる。

つまり、著者にとって、こうした保守党政治家たちは、単に政策上の意見を異にするだけではない。いわば人格的な問題をもつ人びととして描かれてる。これに対して、キャメロン首相やオズボーン蔵相、そして残留キャンペーンに携わる超党派の人びとは、人格的にもすぐれた人たちのように描かれる。政治上の意見の相違は、やはり個人的な友敵関係に翻訳されやすいんである。

しかし、こうした戦犯たちの背後には、「政治においては、事実はすべて複雑だし、嘘はつねに単純である」(正確な引用ではないが著者自身のことば)ことを理解しない有権者たちがいる。彼らは、キャンペーン・メッセージ以上の長さの文を理解する耳も暇も有してない。残留派の人びとは嘘とか誹謗中傷など個人攻撃を避けるという方針を堅持するが、やっぱり世論は正しい方向に、あるいは少なくとも崖から飛び降りないように、上手く「操縦」(スピンをかける)されないとならない。敵陣営のメッセージに対しては、効果的な反撃メッセージを編み出して、相手の勢いを削ぐ。離脱派がテレビに出演するのをモニターして、失言になりそうなものがあれば即刻攻撃のツイートを大量に流す。これもメディア・チームの仕事だ。加えて、自陣営の不利になるような味方の「失言」にも目を光らせて、厳しく取り締まらないとならない。

しかしながら、著者の目から見ると、こうした状況は残留派に不利な戦いを強いた。第一に、敵は国の利益にも党の団結にも責任をとるつもりがないから、何でもできる。第二に、メディアも売れさえすれば何でも(つまり読者である有権者が欲するものは何でも)報道する。そうでないものは報道しないか、著者などに督促されてしたとしてもすぐ忘れる。専門家の意見はほとんど取り上げられないのに、誹謗中傷やデマはすぐに一面を飾る。そして、ひとたび広く流布してしまったものは、どんな嘘でももう取り消すことが誰にもできない。第三に、EUに残留すべき複雑な理由を有権者に理解させることは、事実上不可能である。「離脱はあなたの財布を直撃しますよ」というメッセージを繰り返すくらいしかできない。

だが、第一の点を除けば、離脱派もまた同じ立場である。メディアの注目を得るためには、退屈で面倒な政策談義ではなくて派手なスタンド・プレーを行なわないとならない。両陣営とも、問題を単純化して、自分たちの答え一択しかないという印象を植えつけることになる。国民投票は、国民のあいだの議論を促し理解を深めるどころか、問題を矮小化し視野を狭めてしまう。結局は、複雑多岐にわたるEU問題の争点は、「経済」か「移民」かという選択肢の対決のようになった。財布への影響を恐れて残留を支持するか、移民のさらなる流入を恐れて離脱を支持するかの二択である。

要するに、本書を読むかぎりは、責任感のある良識派がワルとバカの犠牲になったというような印象を受ける。残留キャンペーンの敗北を受けて、当然ながら著者は落胆するんだが、ただ単に負けて悔しいというのみならず、無力感、徒労感を感じずにはいられなかった。なんとなれば、敗れたのはキャメロン首相ら残留派のみではない。良識が悪や無知に敗れたのである。

だけども、本当にそうなのかとぼくらは問うことができる。EU離脱問題は、文字通り国民を真っ二つに割った。保守党のみならず労働党も、財界も労働組合も割れた。事前の世論調査においては、まさに伯仲の勝負であって、だいたい残留派が少しリードしていたんだが、なにかひとつ起これば結果がひっくり返りかねなかった。そして、実際にひっくり返った。直前の世論調査では残留派勝利の予測が出ていて、投票が締め切られたあとで離脱派は早々に敗北宣言を出したりした。ところが蓋を開けてみたら、離脱派が勝利していたんである。

トランプ氏の勝利もそうであるが、近年、事前の世論調査と投票結果との乖離が目立つことが多くなっている。その原因についてはいろいろと憶測があるんだが、どうやら普段は投票にも行かないし、世論調査にも答えないような棄権層が投票所に脚を向けるような選挙が増えていて、そういう人びとはポピュリストに票を入れやすい。それで、ポピュリスト候補が予想外の勝利を収める。ブレグジットは国民投票であるが、ポピュリスト的な陣営によってキャメロン首相ら「親EU派」と見なされた政治家への信任投票という性格を帯びさせられた(実際は、キャメロン首相は残留支持であるが親EUと言えるかどうか微妙なんだが)。

これらの人びとがみんな良識の通じないワルかバカであるという説明は、自分にはあまり説得的に聞こえない。一部の政治家が権力欲のために反移民感情などを利用したのはたしかだが、それだけとは思えない。かれらが離脱を選択したのには、かれらなりの論理があるはずである。

著者もまた、国民にある種の理性があることを認めている。だが、それは個人のレベルでの経済合理性である。国民はいまだかつて自分の財布を直撃するような政策を支持したことはない。政治に無知、無関心であるような有権者も、自分に財布に入ってくる金銭の量を左右する話には案外敏い。そして、EU離脱によって英国経済が影響を受けること、そしてそれは悪い影響であろうことを想像するのはむずかしくない。それがどのくらい悪くなるかは予測不能であるが、専門家もこれを保証している。ある専門家団体の試算によると、GDP6%減という予測もあった。離脱してみた結果、この最悪のシナリオは実現しなかったが、英国経済に負の影響が出ていることは確かであり、多くの国民は国民投票で離脱に投票したことを後悔したとも言われている。

「EU離脱はあなたの財布を直撃しますよ」という残留派の中心的メッセージは、この合理性に期待したものだった。対して、離脱派の弱みは離脱の経済的影響をはっきりできないということであった。離脱派が移民問題に注力し、もっぱら反移民感情に訴えるようになったのも、むしろこの弱みをつかれて劣勢を強いられたためという一面があるようだ。

しかし、GDP何パーセントという話は、一般有権者にとっては抽象的すぎる。彼らの関心は、自分の財布にいくら金が入って出ていくかという話であって、経済全体の話じゃない。これに対して、「移民」というのはより具体的な話だ。自分たちの周囲に「黒い肌」の人びとが増えていて、いろいろな摩擦を起してることを、多くのひとが身近に知っている。敗因の分析として、そういう見解が述べられている。移民制限は必ずしも非合理的なものとは言えないが、この場合は、理性よりは感性(「黒い色の奴が増えてて、いやだな」)が経済的合理性を曇らせたものと捉えられている。

ちなみに、保守党残留派も移民問題を無視しているわけではない。ただ、彼らはEU離脱したところで、移民問題は解決しないと(おそらく正しく)考えて、そう主張した。経済が後退すれば、移民問題解決はかえって困難になる。加えて、EU離脱はEUの干渉を取り除くが、EUの協力は取りつけにくくなる。それが理解できない民衆は、やっぱりワルでバカだということになる。

自分もまた、そういう一面があることは否定しない。だけども、それだけが理由で国民の大半が離脱に賛成したなどということは、ちょっとありえないんじゃないかと疑う。たといそうした人たちが説明を求められて、反移民感情を延々と吐露したとしてもである(そして、たぶん多くのひとはそうするだろう)。そんなことをすんなり受け入れたら、民主主義なんて明日にでもやめた方がよろしいということにならざるをえない。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。