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レールモントフ(思慮に欠ける善意の人々の寓話)

昔々、あるところにフィウパン・テラという小さな町がありました。そこに住む人々は平和と秩序を愛する人々で、慎ましいながらも幸福な毎日を送っていました。謙虚な人々は、今日もすべてが無事に終わったことを神に感謝し、明日もまた同じような一日をお恵みくださることだけを念じていました。

しかし、あまり幸せではない人間もおりました。徒弟である彼は、彼を嫌う鍛冶屋の親方のもとで働いていました。しかし、毎日毎日が同じことの繰り返しで過ぎていくことにうんざりしていました。

「これが幸せってやつなのかなあ。こうやって歳をとっていくのかなあ。生きるっていうのはこれでぜんぶなのかなあ。」

つねに心のざわめきを感じていた彼は、よく仕事を抜け出しては、貧しい行商人や旅芸人によその場所の話を聞いたり、山に庵を結ぶ隠者を訪れては、目に見えない世界の話などに熱心に耳をかたむけていました。

「この町の外にも世界は広がってるんだな。いつかはこの町を出て旅してみたいものだな。」

町では彼は孤独でした。町の人の言うことにはろくに耳も貸さず、余所者の話ばかりを聴いているこの男を、人々はあまり快く思っていなかったのです。仕事が引けると、徒弟は町のはずれの丘にのぼっては、崖の下に続く森やその向うにそびえる山並みを眺めつつ、絵を描いたり考えに耽ったりするようになりました。

「あのろくでなしの畜生め、仕事も覚えねえくせに、一体どこをほっつき歩いてるんだ。まさか崖から飛び降りようってんじゃねえだろうな。おれの顔にどろをぬろうってのか。」

親方は町の娘に言いつけて、彼の様子を探りに行かせました。駄賃をもらった娘は喜んで丘にのぼっていって、彼の様子をのぞき見しました。木陰からこちらの様子をうかがっている娘の姿に気づいた徒弟は心のなかで思いました。

「あの娘は、おれに興味があるのかな。それとも、親方に言われておれを見張っているかな。」

娘があまりにこちらを見るので、「そんなところに隠れていないで、こっちにおいで」と声をかけました。好奇心の強い娘はまたまた喜んで彼の隣に腰を下ろしました。彼は娘に自分の描いた絵を見せたり、あの山の向こうにあるはずの世界について自分が聴いたことなどを話して聞かせました。娘は目を輝かせて聞いていましたが、彼女のちっぽけな頭には彼の言うことの半分も入りませんでした。

それでも、彼は話し相手ができたことを嬉しく思いました。

「まあ、いいや。少しずつ話してきかせよう。そのうちわかるようになるさ。」

その日から、彼と娘は毎日夕方になると、丘のはずれの崖の上に腰を下ろして、景色を眺めたり話をしたりするようになりました。娘もまた彼と一緒にいるのが愉しくなりました。彼の気に入られようと、彼が笑うと彼女も笑い、彼がため息をもらすと彼女もまたため息をつきました。

やがて徒弟は娘を好くようになりました。男は考えました。

「おやおや。この娘はこんなおれに同情してる。ひょっとしたら一緒に旅に出てくれるかもしれんな。」

娘の方も親方と徒弟のいずれにもいい顔のできるこの役目が気に入りました。娘は考えました。

「おやまあ、あたしの魅力もちょっとしたものね。誰にも心を開かないこの人の心を開いたわ。でも、いっしょに町を出ようなんて言われたらどうしましょう。あたしにはれっきとした許嫁もいるのに。」

徒弟と娘が毎日丘の上であいびきをしている。こんなうわさが町に広がるのに長くはかかりませんでした。しかし、それは親方から言いつけられて、徒弟を見はっているのだと言う者もいました。その噂は彼の耳にも届きました。町は彼にとってますます居づらい場所になりました。

ある日、とうとう徒弟は娘に言いました。

「いっしょに町を出よう。二人で広い世界を見に行こう。」

娘はあらかじめ言いつけられていたとおりに答えました。

「町を出るですって? あんたと? かんちがいしないで。あなたに同情するのは隣人として、人間としてなのよ。それ以上を期待されてもこまるわ。」

徒弟は町のうわさが本当であることを悟りました。

「そうか。じゃあ、もうここには来ないがいい。おれのことは放っておいておくれ。」

彼は悲しい眼をして言いました。

この言葉を聞くと、娘は憤然として立ち去りました。そして丘を下りると、親方のもとに駆け込みました。

「ねえ、あの徒弟ときたら、いっしょに駆け落ちしようなんて誘うのよ。あたしが断ったら、真っ青な顔してたわ。崖から飛びおりるかもしれなくてよ。」

驚いた親方は町の衆を集めて、丘へ向かいました。崖の上の徒弟は、町の屈強な男たちがこちらに向かってくるのを見ました。彼は崖の上を走って逃げましたが、たちまち男たちに追いつかれました。もみあっているうちに、徒弟は足をすべらせ崖の下へまっさかさま。

親方と町の衆が谷底をのぞくと、妙にねじれた徒弟の体が横たわっていて、その下には見る見るうちに黒い血だまりが広がっていくのが見えました。男たちは顔を見合わせ肩をすくめると、頭をかいたり首をふったりしながら町へ帰っていきました。

「見たかい、あの汚らしい血を。あのクラゲみたいにねじれた醜い体を。おれたちの善意にたいする礼がこれだって? まったく無礼な奴だ。」

返り血を拭うように、親方が言いました。

「なんにせよ、大ごとにならずにすんでよかったよ。」

特に分別のある一人がすかさず親方の魂を救いました。

娘は木陰から一部始終を見ていましたが、こわくなって家に逃げかえりました。

町の人たちは根は善良ですから、翌朝、みんなを代表して、一人の信心深い婦人に、様子を見に行かせました。徒弟の体は昨日とおなじ姿勢でねじれて横たわっていました。半ばかわいた血で覆われた体にむかって婦人は言いました。

「まあまあ、どうでしょうね。あんたとは初めて会ったっていう気がしないね。みんながあんたのことを心配してたからね。おまえさまが崖から落ちたと聞いて、このあたしだって昨晩一睡もできませんでしたよ。」

婦人はこう言って徒弟を見つめましたが、彼は何の反応も示しません。彼女は安心して続けました。

「どうやら判ってくれたようね。でも、なんだかんだいっても、こうなってよかったんだと思うわ。おかげですべてははっきりしたし、あの娘の評判にも傷がつかなかった。きっと、あんたも崖から落ちる前以上に元気になりますよ。この世界は最善のためにできてるんだからね。もう町にはあんたの居場所はないけれども、神のご加護をお祈りしてますよ。」

この赤の他人の不幸に眠りを忘れることのできるやさしい婦人は、またひとつ悩める魂を救ったことに心から満足して、立ち去っていきました。

だけども、徒弟はまだ生きていました。血で曇った目を開き、虫の息で娘の姿を探しましたが、そんなものはどこにも見当たりませんでした。

それから徒弟がどうなったのかは誰も知りません。ただ、カラスの群が二、三日丘の上に集まっているのが町にも聞こえてきました。鳥どもが去ってしまうと、町の人々は、何事もなかったように、平凡で幸福な生活に戻っていきました。でも、そのまえに、子どもたちにこう言うことを忘れたりはしませんでした。

「見なさい、ほらおまえたちへの見せしめだ。彼は傲慢で、我らと仲良く付き合わなかった!⋯⋯」

*****

山ほどの善意も、相応の知恵なしには著しい悪を為す。ごく少量の悪意だけがあれば。

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。