「批判ばかり」と批判される野党は、じゃあ何をすべきなんだ
おことわり
今回の記事は、他人がまだよく知らないであろうこと調べたんでお教えしましょうというようなものではなく、一市民として愚見を披露してみなさんの批判検討を乞いたい、という性格が濃い(実はいつもそうなんだが、今回は特にそう)。
だから、本来であれば無料にして、誰でも読めるようにしておきたい。しかし、この季節は自分にとってはいちばんつらい時期で、暑さで体が弱ってるところに、年に一度の出稼ぎが重なる。であるから、趣味娯楽である note 更新が重荷になるんだが、今年は有料サービスを提供してるから書かないわけにいかない。しかし、別に記事をもう一本書く力が残ってない。
そこで、あまり潔いやり方ではないんだが、一応メンバー限定記事として値札はつけておくが、無料で全部読めるようにしておくという対応にしたい。カネを出してくれてる人には面白くない話だが、今のところ定期購読者はゼロだから、直接害を被る人はいない。なんだ、そんないい加減なサービスは買わんという人が増えるかもしれんが、それなら自分が我慢すればよいだけの話であるかと思う。
やめてしまってもいいんだが、有料サービスはカネを稼ぐというよりは、他人に読んでもらう文章を書き続けることを自らに課す方に主要な目的がある。この目的は果せているから、まあもう少し続けてみたい。
強い野党を育てたい理由
日本にはなぜ野党が育たないか。ここ数年、そういう問いを自分は抱えてる。あまりに大雑把な問いであるし、方向性からして間違ってるかもしれないんだが、「自民党はなぜ強いか」ではなく、「なぜ野党は弱いのか」と問うた方が、「野党を強くするために何ができるか」という今日の要請(と自分が考えるもの)に応えられるんではないかと思ったんである。
だが、今のところ、あまり収穫がない。いくつか仮説みたいなものを考えてはみたが、どれもまだ説得力に欠ける。土台としては、日本で野党が育たなかったのは、なにも日本人の不変の民族性とか文化的特性とかのせいではなくて、歴史的過程の結果にすぎないという思いがある。そうなる必然性はなかったし、これからずっとそうである必然性もない。政治的アクターたちの決断次第で別の結果になったかもしれないし、今日のアクターたちの決断次第で未来も変わりうる。だだ、今の結果を生みだした決定的な瞬間がどこであったのか、誰のどのような決断(あるいは不決断)がそのような結果を生みだしたのか、ほかにどのような選択肢がありえたのかを特定しかねている。
言っておくが、野党に育ってほしいのは、日本の落日が自民党が権力の座に居座っているせいで、連中さえ追いだせば世の中はよくなる、と考えるためではない。ただ政権を狙える政党なり政治勢力なりが二つ以上ないと、いざというときに困ると思うからである。有事に備えて防衛力を強化しておくのと同じ理屈で、悪党を追い出す善人賢者たちを育てようという話ではない。極端なことを言えば、悪の軍団みたいのでも二つ以上あればよい。その二つに人民の支持を巡って競わせておく方が、一つの軍団が覇権を握っているよりよろしい。そういう多分にシステム論的な考えで、自民党がこのシステムの一方の極でも構わないし、現実的に考えればそうなるだろうと思う。
自民党には多様な派閥があって、派閥間での競争が政党間の競争の代わりになる。だから日本には政権交代は要らない。そういう意見も耳にするし、自分もかつてはそのように考えたこともあった。だけども、安倍一強時代にその自民党の多様性自体に疑問符がついた。自分が野党を育てることを真面目に考え出したのは、この傑出した党指導者の成功のあおりであった。
ところが、政治においては一瞬先が闇である。安倍後もきっと官邸・党執行部主導体制が続くだろうなという自分の予想は、またしても外れた。安倍さんが凶弾に倒れたあと、派内に主導権争いあって、そこに統一教会問題、そして裏金問題が直撃した。安倍派の支持に頼むところが多かった岸田首相にも予想外の展開であったが、かえって安倍派の影響下から脱する好機ももたらした。ところが、安倍さんを支持した党内外の保守層の支持は失ったけど、それ以外の層からの支持もつかみ損ねて、安倍派といっしょに沈んでしまった。派閥も名目上は解体されたかたちであるから、自民党自体が戦国時代に突入してしまった。それで、どうやって野党を育てるかという自分の疑問も、ちょっと宙づりになったかたちである。
しかし、長い目で見れば、自民党内の有力者間の取引という不透明な形で疑似政権交代が行われるとしても、公けの選挙によって政党間で政権交代が行われるという選択肢も用意しておいた方がいい。そのためには、やっぱり強い野党が育ってないとならない。一党とは限らないけども、その気になれば自民党という覇権政党に対抗できるだけの凝集力のある政治勢力が、つねに存在しておいてもらわないと困る。
自分はそう思うんであるが、「じゃあ、どうすればいいんだ」と問われると、よい答えが思い浮かばない。そのような答えは、少なくとも野党勢力が凋落していった戦後政治史や野党が育った他国の事例を研究する比較政治に関して、いま自分が有している知見の及ばないところである。
政策実現が野党の仕事?
だが、そうした歴史的分析から切り離して、今現在の野党批判に耳を傾けてみると、ひとつ有力なのは「野党は批判ばかりしてて仕事しない」というもののようである。政治の世界のみならず、日本では「批判ばかりしてる」というのは相当重い罪状である。わしらだってこうしたくてやってるんじゃない。こうするしかないから、いやいやでもやってる。他に代替策がないなら、批判などせずに黙ってやるべきことをやれ。わしらはそうしてるし、そうする者がえらいんだ。こういう思いが有権者にもあって、野党にたいする支持が伸びない理由の一つにもなっていそうだ。
つまり、有権者は野党に政権与党批判以外の何かを期待してるらしい。だが、野党にいったい何ができるか。政権与党とちがって、野党には国家権力を行使する権限も国家予算もない。政策を提言したところで、それを実現するにはまず国家権力を掌握しないとならない。政権与党は利益誘導型の政策で支持を集めることができるが、国庫にアクセスのない野党にはこの選択肢は限られる。
そうなると、「野党は批判ばかりしてないで仕事しろ」という批判は、「与党から政権を奪って政策を実現しろ」という意味であるはずだ。しかし、そもそもの問いが「いかにしたら野党が政権を奪取するだけの支持を有権者から得られるか」であったから、話がまた振り出しに戻る。そうやって同じところをぐるぐる回ってるだけの話になるから、これも当の本人たちが否定してる「批判のための批判」にしかならない。
これが行き着くところまで行き着くと、国家権力の行使に参与できない政党など邪魔なばかりで、国民にとって何の役にも立たない。国民主権の政治にとってなにより重要なのは政権与党をいかに国民に奉仕させるかであって、批判ばかりの野党にはこれができない。そんなものはなくても誰も困らない。どうやらそういう結論になる。
であるから、野党はよくても、世論の先鋒や手兵として政権与党をけん制することくらいしか期待されない。政治に限らず、客の愛顧を奪い合う競争においては、「みなさんのために社員一同一生懸命頑張っております」はどこも同じであるから、政党間のちがいも「どこがいちばん一生懸命頑張っているか」に還元される。この役割を終えてしまえば、有権者の関心はまた国家権力と国家の財布のひもを握る政権与党に戻る。これを繰り返したところで、野党への支持が固定支持層を越えて広がるとは考えにくい。
であるから、「野党は批判ばかりしてないで仕事しろ」というのであれば、それがどういう仕事であるのかもはっきりさせてあげないとなるまい。野党への親切としてではなくて、そうしないかぎり有権者のほうも「批判のための批判」という誹りをまぬがれないからである。
だが、批判しない野党は何をすべきか。これに答えることが、ぼくらの政治的想像力ではなかなか難しい。一つには、自分たちで個別の政策を策定・提言して、政権与党との取り引きによってこれを実現することを目指す、という行き方がある。自民党には票を入れたくないけども、批判ばかりの野党にも入れたくないひとびとの票の受け皿にはなるし、それはそれで有意義だ。だが、これが常態化すれば、もう野党は野党というよりは与党の一画である。なぜその政党が別に存在しなければならないのかが曖昧になってくる。
実際的な観点からも、与党が受け容れられるだけの個別の政策で勝負していても限界がある。政権与党の都合でいつでも切り捨てられるんだから、よほど例外的な状況が長つづきしないかぎりは、政権奪取が視野に入るほど党勢を拡大する前に、党内外に多くの失望を生み出してしまうリスクがある。それならいっそのこと、連立パートナーや派閥の一つとして活動した方がよい。その中間でバランスをとるにしても、強い野党を育てるというわれらの課題においては、その役割は限られたものにならざるをえないんでないかと思う。
「世界観づくり」という仕事
自分が考えるに、国家権力を掌握してない野党の仕事を、与党の仕事の基準で測ろうとするから、そういうおかしな話になるんではないかと思う。野党政治家が悪いというよりは、有権者がそういう基準で野党を測り勝ちなんでないか。「野党は批判だけしてればいい」と「野党は与党に負けないだけの仕事をしないとならない」のあいだに、もっといろいろ考えられないか。
これは自分自身の限られた経験に基づくんだが、一有権者としてある政党を評価するさいにまず何を知りたいかを考えると、批判でもなければ政策・綱領の類いでもない。とくに個別の政策論なんかを聞かされたって、それが現実的であればあるほど、直接の利害でもなければぜんぜん響かない。一般的にも、むしろ陰謀論とかユートピア論みたいなものに頼る発信の方が刺さるようだ。
それもそのはずで、おそらく有権者がいちばん知りたいのは、その政党や支持者たちのあいだで共有されてる世界観においては、自分のような人間はどのように位置づけられてるんだろう、ということではないかと思う。批判も政策もこの世界観から自然に出てくるようなものでなければ信用がならないし、そうである以上は批判も政策提言もその場の人気取り以上の意味をもちうる。
この「世界観」には特定のイデオロギーや宗教に基づくものもあるが、今日ではそういう既成のつるし服みたいなものにたいする信頼が低下してる。だから、自分たちでいろいろ創意工夫しないとならないところに苦境がある。それがまだ一定の凝集度に達してないから、政党幹部の間でも、指導者とフォロワーのあいだでも流動的である。なんとなくパーソナルな紐帯やそれぞれの気分で集まって、争点ごとに右往左往する。むろん、そういう緩い集まりだから誰でも気軽に参加しやすいんだが、支持するかどうかを悩む側から見ていると、いったいどういう集団であって、自分のような人間をどのように見ているのかを測りかねる。
話が長くなるからここでは詳述できないが、先進国で今日の二大政党制あるいは多党制の一画をなしている政党の歴史を顧みても、パーソナルな紐帯を越えて支持層を広げた政党は、そこに多くの人を包摂できる世界観を提示してきた。安倍さんの指導の下の自民党もまた、利益誘導型政党から世界観政党に舵を切った一面があって(そうなり切ったわけではないが)、それが組織票の減少にも関わらず安倍さんが選挙に負けなかったひとつの理由ではなかったか。
そんなのは理想論だ。多くの有権者は「世界観」などというものには無縁の衆生であって、眼の前にパンかサーカスをぶら下げてやらないとびくりとも動かんよ。そう思うのは、「世界観」を特定のイデオロギーとか宗教教義なんかに限ってしまうからだが、こういう風に考えてみて欲しい。あの人たちはどんな人たちで、自分らをどういう風に見てるのか。この問いにはっきりした答えを与えてくれずに、なんだかうるさい批判や七面倒くさい政策論を売り込んでくる者に、果たしてどれだけの有権者が愛着を感ずるか。それを考えれば、「世界観」なんて理想に過ぎないなどという人の現実感覚がのほうが、ちょっと疑われるわけである。
かつては、あの人たちは「リベラル」であるとか「愛国者」とか「キリスト教徒」であるというラベルで、これを判断できた。政党の名に「自由」とか「国民」とか「キリスト教」とか国名・民族名が入ってるのもその名残である。その名の背後に、何か特定可能な世界観があった。今日では、こうした安易なラベルでは、もうあの人たちがどういう人たちで、自分たちをどう見てるかを判断しにくくなった。しかし、それをもって、世界観など不要になったと考えるのは早計かもしれない。
ヨーロッパ諸国で既成の伝統的政党となっているものの多くも、もとは野党として始めた。かなりの部分は非合法でもあったから、そんなものを支持したってご利益どころか損のほうが多い。そんな政党が支持を得たのは、与党がもたらしてくれない希望をもたらす新しい世界観を提供するかぎりのことであった。自分が何者であり、何をすべきかに関する明確な自覚。生きることの意味が見出せるのは、同じ世界観を共有する者との協同においてであるという確信。要するに、ぼくらが作り物の物語で得てるカタルシスを、現実に提供してくれた。だからこそ、映画でしかお目にかかれないような英雄的行為が、普通の人々によってさえもなされえた。
とくに大衆政党と呼ばれるもののモデルになったのは、右でも左でも教会組織であった。教会組織は一面にはシニカルな利得計算に基づく政治組織であるが、もう半面は信徒に安定した世界観を提供する教団である。現代社会の世俗化というものは、ひとつには教会から政党組織への移行というかたちで現われたのであり、近代のイデオロギーは機能的には信仰の代替物としての一面があったと言ってもよい。なんとなれば、世界観づくりというのは個人の手に余る。伝統的な世界観から解放されたまま放っておくと、多くのひとびとは世界や自分の存在の意味を見失うようになる。この隙間の一部を埋めたのが、政党による組織化と動員であった。
そうした政党が発展しないということは、それまで世界観を提供してきた伝統的な信仰が衰退するにつれて、人民が慢性的な宗教的・政治的飢餓状態に置かれるということであり、統治エリートが予想もしないところに救いを求めかねない人口を増やして、社会統合上のリスクを抱えるということでもある。与党が取りこぼした層を野党が取り込んで、有為な若手を育て統治エリートに選抜する回路を開けないと、損をするのは何も野党ばかりではなかった。
情熱と政治
白状すると、この結論は自分にはちと苦いものである。政治学徒としての自分は、二十世紀の世界観政治が生み出した数々の災厄に鑑み、政治に直接世界観を持ち込むのに懐疑的であった。安倍派の方々にたいする自分の最大の懸念も、彼らがワルであるとかバカであるというものではなくて、権力の中枢にいるにはあまりにクソ真面目に熱血すぎる方々が多いんではという点である。はなはだ失礼な言い方であるが、自分の世界観に酔った中二病みたいなものをちょっと感じる。
しかし、いかに野党を育てるかを考えていくうちに、やっぱり情熱の力に譲歩せざるを得なかった。二つ以上の力を互いに牽制させてバランスをとるといったようなシステム論では、どうやったって野党を支持するような情熱を生み出すことができない。逆説的に聞こえるが、私的な利害や心情を押し殺して軍隊的・官僚的組織の歯車に徹するような集団を構成することは、情熱を欠いてる者がなせることではない。プロテスタント倫理のように、そういうものを絶対的に要求する大義への情熱的献身、ほとんど宗教的な情熱があってはじめてなせる。
そうした情熱をかき立てるのは、自分の存在に確固とした意味と行動の指針を与えてくれるような、ある種の世界観である。もとより、それを作るのは政治家の仕事じゃない。権力闘争としての狭い意味での政治から距離を置いて、自律的に行なわれるべきである。しかし、そうやって政治の外でつくられた世界観が政治にも影響するし、また政治からも影響を受ける。
たとえどんなに包摂的な世界観であっても、すべての人のすべて面に肯定的な意味を与えることはできない。包摂されるものがあれば、必ず排除されるものがある。理論的包摂は、政治的現実において暗に己の内にある排除に気づかされる。世界観政治はまた社会に分極化をもたらす。
であるから、あらゆる政党は、何らかの意味での「敵」を名指しする傾向があるし、たぶんそうせざるをえない。何かを包摂するために、それに矛盾し対立するものを排除せずにはいられない。それがゆえに権力が争われる。しかし、だからこそ二つ以上の政治勢力が必要となるわけであって、「国民の利益」を守る真の国民政党が一つだけあって、その他の政党はみな私党だなどという政治家の売り口上を、額面通りに受けとってはならない。
しかし、包摂される者より排除される者の数が多くなれば、そのような世界観をもった政党は民主的制度のもとでは勝つことができない。この政治的現実があるかぎり、理論はまた政治上の実践によって見直しを迫られる。いかにすれば過半数を押さえることのできる世界観を提示できるか、が問われることになる。多数専制の民主政で少数派や弱者にリップサービス以上の配慮が払われるのは、おそらくこの文脈だけだろうし、実際にマイノリティの包摂が民主政において進んできたのは、政党間の権力闘争においてであった。与党を脅かす野党がなければ起きなかったわけで、これなんぞも野党の仕事の成果のひとつに数えられてよかったのである。
要するに、自分が言いたいのはこういうことである。野党が野党であるかぎり、国家権力を用いた財の再分配がその仕事ではありえない。それはむしろ観念的領域にある。バラまくだけの資源を欠く野党が多くのひとの情熱をかきたてたいのであれば、ひとびとの精神に訴えるしかない。そのもっとも完全なかたちは、ある種の世界観の提示(必ずしも創造じゃない)である。批判も政策提言も綱領も、そのような世界観の具体化でなければならない。批判が嫌われるのは、それがその場限りの人気取りにしか見えないからであって、自分たちはこういうものを肯定し、こういうものを否定する集団であると明示しないかぎり、支持を広げることはできないんじゃないか。ただ、その際に、排除の論理が包摂の論理を凌駕しないように、政治の結果を見定めながら不断に見直していく必要があるんじゃないか。
こんな結論も、政治の徒としての自分にとっては、ひとつの変節たりうる。いやいやながら、野党が育たないという現実にこれを迫られた(とくに、それでも野党の側でがんばる若い諸君の存在によってだ)。こうであるはずだと押し売りしたいんではなくて、こんなものが出てきちゃったけどどうしようと、みなさんに相談してみたい。別に今すぐに自分に返事をくれという話ではないが、家に持ち帰って考えてもらって、機会があったら親しい人たちとでも意見を交換してもらいたい。そういう類の話である。
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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。