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グローバル教育とリベラリズム

自由貿易の理論と現実

以前にリベラリズムの講義で自由貿易理論のお話をちょっと致しましたが、今年の授業ではこれに関してたいへん面白い議論がありまして、私自身も考えさせられたことがあります。先生も学生から学ばされることがあるんですね(私は厳密な意味では「先生」ではないし、そう呼ばれるのも好かないんですが)。せっかくですから、これをここでみなさんと共有しておきたいと思います。
 
クラスで話題になったのは、グローバル化と貧困・格差との関係であります。自由貿易理論によれば、各国が自分のもっとも得意なものの生産に専念し(術語では比較優位がある分野への特化と呼びます)、分業をしてお互いに貿易をすると、資源配分が最適化して、全体のパイが最大化します。つまり、同じ量の資源を用いながら、総生産量は増大する。それだけではなくて、この分業に参加したすべての国が何かしらの利益を得る。これが自由貿易理論でした。
 
例えば、農業に比較優位のある国は農業に特化し、工業に比較優位がある国は工業に特化する。そして、国内需要を満たした上で余った余剰生産物をお互いに貿易で交換する。そうなると国際的な分業体制ができあがりますね。そうすることによって、いずれの国も得をする。分業以前よりも多くの生産物を手にすることができる。
 
グローバル化の一面は、この国際分業体制が地球規模で起こることですから、リベラリズムの観点からは、グローバル化によってすべての国が何かしら利益を得ることになるはずです。分配される利益には大小の差がありますから、格差が縮小するとは言えないんですが、絶対的な貧困は減少するはずです。これはみなさんも指摘してくれたことであります。
 
ところが、グローバル化の現実を見てみると、必ずしもそうバラ色ではない。たしかにマクロなレベルでは貧困は減少しつつあるんですが、それでも貧しい国が残されています。それだけではなくて、豊かな国においてさえも、繁栄から取り残されて貧困化していくような人々が生じています。今日の先進国では、かつて中産階級となった人々の娘息子たちが没落の危機に瀕していて、それがトランプ現象とか英国のEU離脱、あるいは選挙における右派なんだか左派なんだかよくわからないポピュリスト勢力の躍進などという形で、政治的にも現われています。

人は自由に移動できない

グローバル化がすべての国に利益をもたらすのであれば、なぜそんなこと起きるのでしょうか。現実の世界が理論通りにいかないのはむしろ普通なんですが、それにしたって何か理由が考えられるはずです(抽象的理論も特殊な理由を考えるための役に立つ)。その理由はいろいろ考えられるんですが、自分が気づいたのは次の点です。
 
貿易の自由化を行えば、生産性の低い自国産業は打撃を受けます。そうなれば、国全体としても損をするはずです。しかし、ここでリベラルが言うように市場の自動調節機能が働けば、最終的には行き場を失った人々や資源もより競争力のある産業(つまり比較優位のある産業)に移動する。しかし、移動が起こるには時間がかかる。ひょっとすると一世代では終わらないかもしれない。その間は失業が増えたり、その産業で栄えた町が廃れたりする。でも、それは一種の摩擦みたいなもので、長い目で見れば、水が低きに流れるように、生産要素(労働力や資本)もまた落ち着くべきところ(賃金や利潤の高いところ)に落ち着く。その時点においては、国全体の生産性は以前より向上している。
 
でありますから、経済的リベラルの視点から見ると、生産性の低い産業を保護するのは非合理であって、むしろ移動がより円滑に行われるようにしてやる方が国益にも世界全体の利益にもかなっている。そういうことになります。短期的には苦しむ人が出てくるんですが、長期的に見ればむしろいいことの方が多い(『長期的には、ひとはみな死ぬ」というケインズの言葉を忘れてはいけませんが)。
 
ところがです。生産要素のなかでも労働力の国際間の移動は、まだ自由とは言えません。グローバル化の時代においても、他の生産要素と比較して人の移動の自由にはかなりの制限がある。これは国民国家の制度と関係していて、移民と市民のあいだに何らかの垣根を設けずにはいられないし、その垣根が低くなりすぎると、こんどは国民国家という制度が影響を受ける。そういう事情があります。ですから、ここでも市場の原理と国家の原理の間の相克、経済と政治の間の相互作用があるわけです。
 
リベラルな自由貿易理論というのは、個人の間の分業による生産性の向上という論理を国と国の間の分業に適用したものなんですが、そうすることによって国民国家という前提が理論にこっそりと持ちこまれている。国と国は財の貿易でつながっていますが、労働力の国際間移動までは勘定に入っていない。生産要素の再配分はあくまでも国内で行われることになっています。
 
そういう次第でこの制約によって、市場の自動調整機能が阻害されることが考えられます。純粋に市場だけの世界(リベラル経済学の世界)においては、人はどこでもいちばん高い賃金を払ってくれる場所に仕事を求めることができるはずです。自分がたまたま生まれた国に縛られる理由はない。ところが、現実の市場においては、そうはなっていないわけです。
 
人はいろいろな理由で土地に縛られますから(生まれ育った土地への愛着、言語・文化のちがい等々)、労働力移動の障壁は国家による移民規制だけではありません。しかし、いずれにしても資本が引き上げられた貧困地域に取り残され、そこから出られない人びとが出てくる。いくら才能があっても、その場所に縛りつけられているかぎりは生かしようがありません。自分はタイ映画の感想でそういう話をした記憶があります。

理論の上では、労働力の移動も自由化しないと資源配分は最適化しないはずです。だけども、さすがに多くのリベラルもこれは政治的には難しいことを認めている。だから途上国への資本や技術移転といった開発援助でこの埋め合わせをしようとする方が現実的だと考える。それはおそらく実践的には賢いんですが、理論的には政治的現実に強いられた妥協とも言うべきもので、リベラルの理想からいえば譲歩と言えるんじゃないかと思います。
 
他方で、リベラリズムに批判的な人びとから見ると、こんな理論と現実との乖離が生じるのは、そもそもリベラル理論の抽象性に問題がある。豊かな感情をもち、言語や文化を有し、土地に結びついて生きている人間を、「労働力」とか「合理的個人」いう抽象的カテゴリーで括ってしまうリベラリズムの人間観に問題ある。そういう指摘が可能かと思います。

グローバル教育のイデオロギー

そう考えると、この話は今日の日本で呼ぶところの「グローバル教育」とも関連してきます。すなわちグローバル教育とは、「土地に縛られずに、資本の豊かな(したがって雇用機会の豊かな)場所を求めて、どこにでも行けるような人間を育成する教育である」というようなことが言える。国際的に通用する言語を習得し、文化的に寛容で選り好みせず、人種や民族の違いを重視せず、また国際的に認められた技術や能力の資格を携えてどこにでも渡っていけるような人々を育てる。また逆に、そういう人々が多く育ってる場所には外国人も入って行きやすいから、資本や優秀な人材もまた集まってくる。それを目指すのがグローバル教育である。そういう定義が可能です。

ですから、個々人にとってみれば、グローバル教育とはドラえもんに出てくるどこでもドアみたいなイメージでとらえられている。教育機関の宣伝なんかもそういうものが多いですね。「世界へのパスポート」と言ったような売り文句ですね。手に入れるのにちょっと苦労があるんですが、ひとたび手にすれば、どこにでも連れて行ってくれる回路になりうるような、そういうものとして教育自体がとらえられるようになっている。。

ただ問題は、当面はそういう教育を受けられる人とそうでない人の雇用機会に差が出ますから、教育格差が経済的格差へと転移されて行く。これはグローバル化以前からそうですが、これがやはり地球規模で起こるんですね。だから国内的にも国際的にも当てはまる。欧米諸国の元植民地であった途上国で一流の教育を受ける方が、先進国で三流の教育を受けるより有利になり得る。

ですから、グローバル教育をできるかぎり普及させて土地に縛られない人びとを増やすというのも、リベラリズムと親和性が高い政策かも知れません。そういう人々が増えれば、グローバル化に対する支持もまた増える。なんとなれば、人が自由に行き来できるような世界が、彼ら個人の私的な利益とも合致するからです。
 
しかし、当面のところは、自分の祖国や同胞をまず優先するというナショナリズムや愛国主義とぶつかりますから、グローバル教育もまた政治問題化してくる。一般にグローバル教育を受けて移動性が高いのは高学歴の人たちですから、低学歴で土地により縛られた人びとがナショナリズムや愛国主義と結びつきやすい。そのような人々にとってグローバル化は私的には好ましくない(消費者としての恩恵を除けばですが)。市場が国境で囲い込まれ、資本が国家につながれている世界が求められるわけです。ですから、右だか左だかわからない経済的ナショナリズムが台頭してくるのも不思議ではないんですね。

権力の最大化を図る国家にとっても自由化は諸刃の剣ですから、リアリズムはグローバル教育の普及にはアンビヴァレントである。国家指導者たちが、一方でグローバル教育を唱えながらも、他方でナショナリズム感情を高揚しようとするのも、このようなジレンマから生じるのかもしれません。マルクス主義もまたリベラルに負けないほど国際主義なので(「万国の労働者よ、団結せよ!」)、グローバル教育の必要自体は認めるかもしれませんが、その内容はリベラルのものとはかなり違ったものになるかと思います。話が長くなりそうなので、この話はまた別の機会にとっておきましょう。
 
教育と国際政治経済とはなんの関係もないように思えるのですが、私がここで「国際政治経済学」なるものを英語で教え、みなさんがそれを学ぶことになったのも、ひょっとすると国際政治経済のなかでの出来事であって、実際にそこに無自覚に参加しているのかもしれない。講義でも触れましたが、理論とイデオロギーのちがいが自覚・無自覚のちがいにあるとすると、これなどはどうもイデオロギーに近かった。図らずも、私もこれをみなさんから教えられて、自分のやっていることの意味により自覚的になれたというわけです。

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国際政治経済学という学問。名前が示唆するほど欲張りな学問ではありませんが、これを学ぶと巷で行なわれてる多くの論争の根底にある本質的な争点が…

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。