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国際政治経済学講義ノート 1(国家と市場)

国際政治経済学の第一講です。講座は以下のように三部立てです。

第一部 国際政治経済学とは何か
第二部 三つの理論的アプローチ
第三部 グローバリゼーション:解き放たれた市場?

今回は第一部の第一講ということで、国際政治経済学というのはいったいどういう学問であるかということをお話したいと思います。

国際政治経済学というのはなんだか欲張りな名前で、「国際」と「政治」と「経済」という現代の重要ワードが三つもつながっています。これを勉強すれば新聞の政治面と経済面と国際面がぜんぶわかりそうな気がする。一粒で三度おいしい、一石三鳥の学問だ。そういう印象をもたれるかもしれません。

だけども、そうなると政治学、経済学、国際関係論などという学問とは、国際政治経済学はどういう関係にあるんでしょう。政治学は政治について、経済学は経済について、国際関係論は国際関係についての学問であるならば、なぜに国際政治経済学という学問が必要になるんでしょう。

第一講の講義では、国際政治経済学の「国際」という部分は取っ払って、「政治経済学」の部分を考察してみましょう。いったい政治経済学とはどんなものなのか。「国際」については第二講でお話します。

政治的なものと経済的なもの

みなさんが新聞の編集者であるとしましょう。新聞は政治面、経済(ビジネス)面、国際面、社会面などに分かれてますから、自分のデスクに集まってくるいろいろなニュース記事を紙面に分配しなければなりません。その際に、どのような基準でニュースを分類するでしょうか。

このような分類をするためには、「政治」とか「経済」というものが何であるかについて何か知っていなければなりません。だけども、通常はこれははっきりとした知識になっていませんね。政治とか経済を定義してみろといわれて、言葉で明確に定義できる人はそうは多くありません。

それでも、たいがいの人は政治ニュースや経済ニュースを正しく識別します。政治や経済というのがどのようなものかに関する暗黙知を有しているんですね。明晰な言葉にはなりませんが物事を判断するときに実際に役立たせている知です。その暗黙知を明示的に言語化してみようというのが、今回の講義の内容です。

世の中には「政治」とか「経済」という領域がある。これは言語を習得する過程で誰もが覚えることです。ですから「政治とは何か」「経済とは何か」という問いが思い浮かびます。しかし、「政治」とか「経済」というものは直接見ることも、触れることもできません。つまり実体がありません。あるのは政治的団体とか政治的活動とか政治的動機というように属性や状態を表す形容詞です。政治的団体は非政治的な団体がもってないある属性や状態を持っているということですね。

そうなると、「政治とは何か(What is politics?)」という問いは「政治的なものを政治的たらしめるのは何か」ということになります。具体的には「政党を企業や家族などとは異なる政治的団体にする属性や状態とは何であるか」というような問いですね。これを縮めると、ちょっと聞きなれない問いかも知れませんが「政治的なものとは何か(What is the political?)」という問いになります。経済についても同様なことが言えます。「何が経済的なものを経済的たらしめるのか」「経済的なものとは何か」です。

「政治的なもの」も「経済的なもの」もわれわれの社会生活に関係しています。一人で孤独に暮らす人には政治も経済もありません。われわれが集団として生きる以上避けては通れないような人間関係の領域があって、それを政治とか経済といった言葉で分類しているわけです。

わたしたちの暗黙知を辿っていくと、たいだいのところ「政治的なもの」というのは国家に関係するものですね。政府とか政策とか選挙とか政党とか、そういうものに関係するものが「政治的なもの」であと分類される。これに対して「経済的なもの」というのは、たいがい市場に関することです。

しかし、これでは一つの問いを別の問いに置き換えただけです。じゃあ、国家とか市場というものはなんであるかという話になります。困ったことに、この国家や市場という領域も必ずしも実体をもっていません。目で見たり手で触れたりできません。なんとなれば、それは見たり触ったりする対象というより、私たち自身がその中に生きている培養液のようなものです。魚にとって水がそうであるように、それ抜きでの生というのがちと想像しにくい、それゆえに対象として外から眺めにくい。そういうものですから、言葉としてしか対象化できないんですね。

市場とは何か

市場の方がわかりやすいのでこちらを先に説明しましょう。われわれがお店に入って買い物をする。ある商品を代金と引き換えに獲得します。そのときわれわれは市場に参加していますね。市場を辞書的に定義すると以下のようになります。

1.市場とは財やサービスを売り手と買い手が相互に合意した価格で売り買いする出会いの場である。

こういう意味での市場は物理的な場所でありえます。今でも魚市場とか農産物市場というものがあって、人々が実際に集まって売り買いしています。

だけども、「労働市場」なんて言葉がありますね。学生の多くは卒業前にこの労働市場に参入することになってます。だけども、この市場はどこにあるんでしょうか。これが分からないと就活のしようもないですが、みなさんは大丈夫でしょうか。

そうですね。労働市場は物理的な場所ではないんです。学生諸君が卒業後の職を求める。企業情報集めて、履歴書を書いて、企業に応募する。企業の方も募集をかけ、情報を提供し、学生さんたちにコンタクトする。そして双方の合意した条件で雇用関係を結ぶ。この一連の過程を「労働市場」と呼んでいるわけで、「築地労働市場」なんて場所があるわけじゃないですね。

日本語ですと「市場」には音訓二つの読み方がありますが、この二つの種類の市場にだいたい対応しています。イチバとシジョウですね。普通であれば、イチバは物理的に場所としての市場です。築地にあるのはイチバでシジョウではない。シジョウの方は「労働市場」のように物理的な場所をもたない市場ですね。より抽象度が高い市場です。

さらに抽象化されると、そうした個別の市場を包括する経済全体をこのような相互の合意による一連の交換によって成り立つ場としてとらえることができます。一般に「市場経済」と呼ばれるものです。また辞書的な定義を示すと次のようになります。

2.市場経済とは富の生産と分配が市場への自由な参加者によって非集権的に決定されるような経済のことである。

「非集権的」というのは、政府のような権力組織が「あれをこれくらい作って、この人たちにこういうふうに配れ」などという指令を出さない。そうではなくて、市場での参加者が自分たちで何を生産し何を消費するかを、みんなに相談することなく決定する。そういう意味です。今日では、こうした市場に関わるものものを、われわれは「経済的なもの」と判断するわけです。

国家とは何か

では、政治的なものに結びつけられる国家の方はどうでしょう。こちらは市場ほどその存在が身近には感じられてないですね。わたしたちはいつどこで国家に出会うのでしょう。

意識はされにくいですが、実は国家にもわたしたちは日常的に接しています。先ほどのお店での買い物の例を考えてみてください。それは市場における交換でありますが、同時にわたしたちは何か別のこともしていませんか。

そうです。消費税です。わたしたちは合意した価格で財を購入していますが、同時にまた税金も支払っている。誰に払っているんでしょう。国家にですね。

しかし、品物の代金を払うのと消費税を払うのでは何がちがうのでしょうか。ちがいは、代金の方は自分が合意した価格です。自分が獲得すると決めた品物を得るために自発的にこれを払ってるわけです。それを買わないという選択肢もある。消費税の方はそうではありません。国家が決めた税率を有無を言わさず払わされます。オレはそんな税に合意していないからと代金だけおいて消費税を払わずに店を出ようとすると、おまわりさんを呼ばれます。おまわりさんとは誰でしょう。ほかならぬ国家のエージェントです。

消費税支払い拒否に限らず、国家に出会うもっとも簡単な方は法を破ることです。そうすると必ず国家のエージェントが現れます。そうしてあなたを拘束したり罰金を科したりします。あなたの合意なんか求めません。これが国家というものです。

でも、なぜ国家はこんなことができるんでしょう。国家は市場の参加者が有してないある資源を有しています。それは暴力です。といっても暴力団の暴力とちがって、正統性を有した暴力の使用です。市場における関係とちがって、国家における関係というのは相手の同意に有無に拘らず何かを強制されるような関係です。この強制力を「権力」と呼んだりします。権力を辞書的に定義すれば「強制されなければやらないようなことを人にやらせる力」です。ですから、国家とは権力機構のことです。

もう一つ国家には市場と区別される特徴があります。市場には物理的な場としてのイチバと抽象的空間としてのシジョウの二つがありましたね。国家はどうでしょう。

国家にも抽象性があるんですが、どこまでいっても国家は物理的な領土からは離れられない。領土のない国家なんてものは想像できないんですね。領土というのは一片の土地でありますから、国家は土地(とその上に住む住民)と分かちがたく結びついている。国家とは一片の土地に対する排他的支配権を有する団体と言えます。

国家のこうした特性をまた辞書的に定義してみましょう。マックス・ヴェーバーという人が定義した近代国家の定義がもっとも一般的に受け入れられているので、主にそれに依った定義です。

1.国家とは支配の一形態である。支配とはある人々による他の人々の統治である。
2.国家は正当な物理的暴力の使用を独占する団体である。
3.国家は領土を含む存在である。

これをこの講義で使われる国家の定義としておきましょう。

政治と経済のあいだにあるもの

市場と国家という言葉に含意される人間関係の質のちがいがわかっていただけたでしょうか。これが「政治的なもの」と「経済的なもの」を区別する根拠です。あまり厳密ではないですが、このふたつの領域のちがいを図式的にあらわすと以下のようになります。

         国家    -  市場
領域       政治    -  経済
目的       権力    -  富
主体       政府    -  個人・会社
組織化原理    垂直的   -  水平的 
交換原理     命令・服従 -  自由契約
通貨       暴力    -  貨幣 
あなたは:    市民・臣民 -  売り手・買い手  

二つの領域は、概念としてはこのようにくっきり分けることができます。だけども、先ほどの買い物の例でもわかるように、現実においてはこの二つの領域は混然としていて見分けるのが困難です。

それだけではありません。二つの領域は必ずしも壁で仕切られてはいません。政治の領域がしばしば経済の領域にも影響を与えます。例えば消費税を税率を上げれば、今まで売れていたものがその分売れなくなって景気が後退したりしますね。逆に経済の領域で起きることが政治の領域にも影響を及ぼすこともあります。例えば経済危機が政権交代の引き金になったりする。

常識的に考えてみても、権力と富のあいだには密接な相互作用がありますね。権力は富を得るために使われるし、富はまた権力を得るためにも使われる。経営と所有が分離してしまった今日では完全には一致しなくなりましたが、権力者は金持ちであり、また金持ちは権力者であると言えなくもない。

政治学や経済学もそれは認めるんですが、ただ学問の領域としてはこれを狭く区切ってしまう傾向がある。それで、言ってみれば政治学と経済学のあいだの学問的分業の狭間に零れ落ちてしまうような重要な問題がたくさんある。その一つが国家と市場のあいだの相互作用という問題です。

「政治経済学」という名前は古いのですが、今日「政治経済学」と呼ばれるものはこの狭間に零れ落ちた問題、つまり国家と市場のあいだの相互作用を研究するために造られた、比較的新しい学問分野なんです。

国家なしの市場

では、どのような相互作用が国家と市場のあいだにあるんでしょう。

みなさんは国家と市場の区別を読んだときに、どちらがより好ましいものに思えたでしょう。そう学生さんに問うと、多くは「市場」と答えるのが常だったんですが、最近は国家好きの人も増えてるようで、はっきりした答えが出せない人が増えてます。

だけども、ふつう経済学者は市場というものを自然なもの、自由で平等な人間のあいだに自発的に存在するものという考えを持っています。だって、もし強制なしに必要なものが生産・分配されるのであれば、どうして国家権力による強制なんてものがいるんでしょうか。

この問いをもう少し考えるために、逆の問いを発してみましょう。国家が存在しない市場とはどういうものになるか。

一つは先ほどあげたイチバみたいなものがそうですね。誰からも強制されずに人々が余ったものを交換しに定期的に集まるようになれば市(イチ)ができる。経済学者はこの類推からシジョウというものも捉えています。だから、植物みたいに自然に発生すると考えるわけです。

だけども、後で説明する理由で歴史的にみるとこの類推はちと怪しい。そこで別の事例を考えてみましょう。みなさんは歴史の授業で東インド会社というものについて習ったはずですが、覚えているでしょうか。最初に作られたのはオランダですが、有名なのは英国のものですね。

この東インド会社というのは文字通り「会社」なんですが、変な会社なんです。今で言うと貿易会社、商社みたいなもので、東洋との貿易のために商人がお金をだしあって会社を設立したのだから、民間企業です。今の企業とちがうのは、王室からインド(当時はインド亜大陸だけでなく東洋一般を指したようです)との貿易独占権を与えられている公認の独占企業である点です。まあ自由化前の電力会社みたいなものです。

だけども、この会社は自前の軍隊を持っている。そのうち領土も獲得して住民に課税しはじめる。つまり国家みたいになっていく。最後は本当にイギリス政府に接収されるという形で国家に組み込まれてしまう。そういうおかしな会社なんです。

(英語ですが、手っ取り早く東インド会社の歴史の概略を知りたい方は次のリンクをクリックしてみてください。BBCドキュメンタリーの宣伝クリップです。)

なんでそんなおかしな会社ができたのか。理由は、当時の東洋との貿易には国家の保護が及ばなかったからです。貿易の相手のインドの王侯や住民がこちらの所有権や経済取引のルールを尊重するとは限らない。公海には海賊がいるし、また独占貿易権を侵す密輸業者もいる。トラブルが起きて自国の政府に訴えたとしても、国家にはその判決を自国の外で強制する力を欠いている。

だから会社は自衛しないとならなかった。私兵を雇って自分たちのルールを強制し違反者を罰する力を必要とした。つまり、市場を機能させるために国家権力のようなものを自前で持つ必要に逼られたんですね。

もう一つ国家なき市場の事例を挙げてみましょう。イタリアのマフィア中南米の麻薬組織日本のヤクザみたいなものを考えてみてください。彼らが血なまぐさい暴力を行使するのは、暴力が好きな人たちだからなんでしょうか。

たとえば、あなたが麻薬組織のボスで、ある人に数十万ドル相当のコカインだかヘロインを米国市場に密輸するために預けたとします。ところがそいつが「商品」ごととんずらしてしまった。大損害です。あなたはどうするでしょうか。

通常であれば国家の司法に訴えるわけですが、非合法ビジネスなのでこれができない。できることは私兵を雇ってとんずらした奴を探し出す。そして、見せしめのために厳しい制裁を加えることです。メキシコ辺りで多発する血なまぐさい事件も、また国家なき市場の一例かもしれないんです。

国家と市場

つまりパーソナルな信頼関係を越えた規模の市場を作って維持しようとすると、どうも国家のような暴力装置が必要になるんです。そうでないと所有権が守れないし、商取引のルールも遵守されない。そうなると、国家と市場を切り離して考えると、国家も市場もどちらも完全には理解できなくなってしまうかもしれない。そういうことになりますね。

経済学者も国家の必要を認めないわけではありません。「市場の失敗」と呼ばれるような事例があることを経済学者も認めています。たとえば市場では供給が過少になる性質の財があります。公共財と呼ばれています。例をあげると国防、道路や公園、公衆衛生などというものです。費用を負担しない人も恩恵を享受することを拒みにくい性質の財です。そうすると多くの人が「タダ乗り」しようとしますから、供給者が儲からない。

だから国家が強制的に税金を徴収して公共財を供給しないとならない。経済学者もここまでは認めます。だけども、やはり例外としてです。原則としては、市場は自然なもので、国家の介入というのは市場メカニズムを歪めるものとして嫌うのが経済学者の立場です。

しかし、政治経済学者は経済学者とちがって、市場を自然なものとは見なしません。それはイチバとシジョウを混同した結果生まれた錯誤だと考えるわけです。まったく逆で、市場経済のように広い領域をまたがる市場というのは、例外なく国家が権力を用いて作り出したものです。

たとえば今日でも「国民経済」という言い方をしますね。日本でもヨーロッパでも封建社会には国民経済はありません。国土は割拠した貴族地主層や自由都市、教会寺社などの領地に細分化されていて、細かい領地間に自由貿易はありませんでした。

それがどれくらい経済の統合を阻害したかをイメージするために、次の地図を見てください。中世のドイツの地図です。今日は統一された国家であり市場であるものは、かつてはこんなに細分化されていたんです。

グラフィックス1

中世のドイツ(Source:  ”GHDI-Map" http://ghdi.ghi-dc.org/map.cfm?map_id=3752) 

この細分化した国土を一つの領土として統一して、同じ法がどの地点においても均一に及ぶようにしたのが近代国家です。国民経済という統一された市場ができるのもこの近代国家建設の一環です。つまり国家規模での市場経済はそもそも国家の手を借りて作り出されたんです。ちょうと東インド会社が暴力を用いてインド経済を国際市場に取り込んでいったのと同じです。

つまり国民経済、国際経済、グローバル市場というもの自体の起源に国家権力がある。そして起源のみならず、今日においてもパーソナルな信頼関係を越えた領域にまたがって市場が機能するために、国家というのは欠かせない要素である。逆に、国家というものも市場で産みだされる富に大きく依存している。そういう国家と市場の相互作用を追究するのが政治経済学という学問であります。

ということで、教科書として用いたギルピン先生のテクストからの引用で今回の講義を閉めることにしましょう。

[政治経済学の問い]が問うのは、国家とそれに結びついた政治過程が富の生産や分配にどのように影響するのか、特に政治的決定や政治的利害が経済的活動の場所配置やそれらの活動のコストや便益にどのような影響を与えるかということです。逆にまた、政治経済学の問いは国家や他の政治的アクターのあいだの権力の福利の配分における市場や経済的諸力の影響についても追究します。特に、このような経済的諸力が政治権力および軍事力の配分をいかに変えるかという点についての探究です。(Robert Gilpin, The Political Economy of International Relations, p. 9。拙訳)

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。