耳を傷める話
ネット政治のダイナミクス
「一体、人民が集合して騒動が持上る際は、必ずといってよいほど次のような人間が何人か混る。その種の人間はすぐかっとする気質のせいか、狂気のせいか、それとも邪悪な底意(そこい)や、混乱のための混乱、破壊のための破壊を望む性のせいか、事態を出来るだけ悪化させることに全力を傾注する。火が消えかかるたびに必ず煽り立て、およそ容赦仮借ない提案を次々と行うばかりか、どしどしそれをけしかける。この連中にかかっては、いくらやってもやり過ぎるなどということは絶対ない。騒動が規(のり)を越えて見境なく大きくなればなるほど結構結構と手を叩く連中である。」
言っておくが、これを書いたのは自分ではない。ある人がそう論評してるのを読んだ。うまいこと書かれてるなと感心したので、ここで紹介する気になっただけである。
幸いなことに、世の中そんな人たちばかりじゃない。
「ところが世の中にはそれと釣合を取ろうととでもするように、そうした連中と同じくらいの熱意もあれば同じくらいの頑張りもある別種の人間も何人かいる。この連中はその連中とは逆の結果を生み出そうとして尽力する。この幾人かは、生命の危険にさらされた人々に対する友誼や情誼から、また別の幾人かは流血沙汰や凶悪無残な真似を嫌うという信心深い天性から、進んで力を藉し、手を藉すのである。」
で、この二種類の人間が自然と対立するわけであるが、実はそういう人たちは群れのなかでもごく少数である。
「それで、残りの大部分はというと、それはいわば騒ぎの原材料とでもいうべき人々で、この大衆(マス)は一方の極から他方の極まで、その色彩りはさまざまで、それこそピンからキリまで混りあっている。多少激昂している者、多少狡猾な者、多少偏した自分勝手な正義感の持主、なにか荒っぽい即決の処刑でも持上らないかと手ぐすねひいている者、その場で平然と残忍なことをしでかす者、人を許す者、憎む者、褒めあげる者。どれもこれもことごとく機会次第で、心中に漲り湧いたいずれかの感情に左右されるのだった。なにか途方もない事を待ち望み、そんな報せでもあれば喜んで信じようとする。誰でもいい、怒鳴りつける相手、喝采する相手、背後から罵倒する相手を見つけたがる。『がんばれ!』と叫ぶか『くたばれ!』と叫ぶか、ともかく連中の口からいちばん盛んに飛び出すのはこの二つの言葉であった。」
この辺まで来ると、「わあ、本当だ」と思ったと読者も多いんではないか。その共感に甘えさせてもらって、長くなるが、さらに引用を続けよう。
「そうした連中を説得して、誰某は八つ裂きにするには値しない、と言いおおせた者は、その先はもう少々言葉を使えば、その誰某は胴上げして凱旋するに値する、とまで持ちあげることもできる。」
ちょっとわかりにくいが、こういう意味じゃないかと思う。誰かが非難の対象になっているときに、「いや、あいつはそんなに悪い奴じゃない」と説得できれば、「いや、あいつは実はえらい奴だ」という逆の極端にまで行くことさえ不可能じゃない。群れた人々は、それだけぶれやすい。判断する観客なんだか、こね回される素材なんだか、よくわかんない。
「要するにこの大衆というのは、風の吹きまわし次第で、役者でもあれば見物人でもあり、事を運ぶ上での道具でもあれば邪魔物でもあった。一旦叫び声が聞こえなくなれば、鸚鵡返しにスローガンを繰返すこともなくなるし、はたで煽る者がいなくなれば叫び声すらあげなくなる。まわりの意見が割れず、みんなが声を揃えて『さあ行こう、今日は終り!』と言えば、ばらばらになって家路につく。そして互いに『結局、これはなんだったのかね』と訊きあう始末である。」
なんだ、またわしらを「大衆」呼ばわりして、バカにしようっていう話かよ、ということなんだが、たとい自分たちのことだとしても、これだけスパッと見事に斬られると、斬られた方も痛快である。気持ちがいいんだから仕方がない。我慢せずに、さらに引用を続けよう。
「だがこの大衆こそが圧倒的な力を持ち、かつその力を望む側に貸し与えることが出来るのだから、その力を我が物にしようとして、互いに激しくせめぎあう両派は、それぞれ秘術を尽して大衆を味方につけようとする。それはいってみれば、一個の馬鹿でかい図体の中に敵対する二個の魂が入りこんできて、そいつをやっきになって動かそうとし、互いに争うようなものだった。それぞれ自派の都合の良い方へ大衆を動かし、人々の情念を煽ろうとして、そのためにもっとも効目のありそうな掛声を掛け、噂を流す。民衆に義憤を発せしめるよう巧みに情報を流す者もいる。希望をもたせるような報せや、また逆に恐怖心を呼びさますような噂を流す者。また恰好の合言葉や掛声を見つけて、それをだんだんと大声で繰返し唱えさせるうちに、いつしかそれが多数の意見となって承認され、過半数の票を獲得し、ついにどちらか一方の党が勝利をおさめてしまう。」
いやあ、これこそわしらがネットなんかでやってる政治やな。そう思わされるんだけど、実はこれ、アレッサンドロ・マンゾーニという19世紀に生きた人が書いた、『いいなづけ』という小説(平川祐弘訳)からの抜粋である。ぼくらではなくて、その時代のイタリアの人びとについての論評である。当然ながら、インターネット上の言論空間などまだない。
中傷する政治
旧い書きものにも、今でも通用しそうなことが書かれてる。そういう話であるから、どうせなら、もっと思い切って時代をさかのぼってみよう。同じくイタリアで、16世紀に書かれた『ディスコルシ』あるいは『ローマ史論』として知られる文書には、次のように書かれている。著者は、ニッコロ・マキァヴェッリという人である(永井三明訳)。
「さて、中傷と告発という両者の間には、次のような区別がある。すなわち、中傷するには証人も物証もいらないから、どの市民も手当たりしだいにほかの市民を槍玉にあげることができる。ところが弾劾となると、告発が間違いないことを明示する積極的な証拠や情況証拠を欠くわけにはいかないから、誰でもいいかげんに告発されるようなことはありえない。」
いまさらな話だが、今日でもこの区別が怪しい人たちがたくさんいるから、こんな一節を改めて眼にすると、なんだか新鮮でさえある。だが、中傷と告発にはさらに違いがある。場所が違う。「他人を告発しようとする人は、行政官や民会や評議会に届けでるのに対し、中傷が行われるのは、広場や人びとの集まる建物の中である。」今日では、広場や居酒屋で人が交わらなくなった代わりに、この中傷の場がサイバー空間に移ったわけだ。
だが人びとが中傷にふけるのは、告発の制度が整備されていないからである。そう言って、マキァヴェッリは、その責めをむしろ立法者たちに向ける。そうした整備が行われて、誰でも告発を行なえるようにしておいてはじめて、中傷をする者を厳しく罰することができる。「以前には、人の集まる建物の中でまき散らされていた中傷が、いまでは、その相手を堂々と弾劾できるようになっているから、中傷をした者はそのため罰を受けたところで、苦情が言えなくなっている」のである。
正規の告発によって民衆の怒りに捌け口を与えることを怠った社会においては、さまざまな紛争が生じてくる。いくら中傷したところで、された者が罰せられるわけではない。ただイライラさせられる。だから、中傷された方だって黙ってない。仕返しをしようとする。中傷した者とされた者の間に、中傷合戦が始まる。中傷しても告発されないんだから、下手な鉄砲でも数多く撃った奴勝ちだ。そういう意気込みで中傷を相手陣に投げ込みあう。そこにマンゾーニのいわゆる「大衆」がこぞって参加してくる。そうなると、もう私人のケンカでは済まされなくなってくる。
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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。