かつて「日本人」であった人々
自分の祖母の妹の亭主は満鉄に勤務していて、家族は終戦時に満州にいた。何も音沙汰がなくて、実家ではどうしたんだろうとみんな心配していた。それが、二年ほど経ったある日、佐世保かどこかに入港した船で帰国した人から報せがあった。家族みんな元気でやっている、赤ちゃんまで生まれたというんで、みんな驚きつつ喜んだ。
話によると、満鉄の残務整理とか何かで帰国が許されず残されたらしい。だが、日本では満鉄はすでに消滅している。占領したロシア軍に協力させられたのかもしれない。給料が入ってこないから、大伯母がタンスから着物をとりだして道端で売って糊口をしのいだという。
そうしてようやく帰国が許された。しかし、一つ問題が生じた。下女として朝鮮人の娘を雇っていたのだが、今さら朝鮮に帰る場所もない、いっしょに日本に連れてってくれと泣く。故郷に帰るところがないという点では、貧困の故に奉公に出された日本の田舎の娘と変わらない。とてもよい娘であったし、子どもたちも彼女を慕い、朝鮮語を覚えてしまうほどであった。
だから、何とかいっしょに船に乗れるように骨を折ったんだが、昨日まで日本の臣民であった朝鮮人は、いまや国籍を剥奪されて日本人ではなくなっている。どうしても入国許可がでないということで、泣く泣く別れて満州に置いてきた。日本に帰ってからも、あの娘はどうしたろうと心を痛めていた。
どこで読んだか失念してしまったが、「一億総玉砕」するはずだった「日本人」は、戦争に負けて「一億総懺悔」することになった。だが、日本の人口が一億を越えたのは1967年で、終戦当時の人口は七千万。ということは、この「一億」にはいわゆる「外地」の人口が含まれてるらしい。戦争を戦って敗れた「日本人」とは、どうも「大和民族」のことじゃなかったらしいのである。そうなると、大伯母の家族ととともに苦楽を共にした娘にも、我々とともに懺悔することが要請されていたようなのである。どうも「日本人」というのはゴムまり以上に柔軟な境界線をもつ人々らしいのである。
自分が母から聞いた話である。今となっては、ちょっと想像しがたい話である。いや、想像するのは容易であるが、今日では日本人も韓国人・朝鮮人もあまり耳にしたくない「都合の悪い」の話である。道理で、自分の書いた以下のような文章も、あまり読まれない。嫌韓の人々だけじゃない。良心的な人でも、無意識のうちに知りたくない、関わりたくないという意識が働く点では、環境問題とちょっと似ている。タイトルに「日韓」とか「環境」が入ると、読む人の数がガクッと減る。ちょっと後ろめたい気持ちを起させるところが共通点。大伯母家族の「後ろめたさ」に通ずる。だからこそ、こんなところにでも書き付けておいて、失われないようにしておきたい。
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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。