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脱イデオロギー時代のイデオロギー政治のためのイデオロギー教育

国民一人一人が政治の争点を理解することにより政治参加の質を上げたいというのが、前回書いた新年の抱負であった。そう書いたのは8年前のことで、今でも書き直す必要を認めないと言った。だが、告白すれば、自分はちと嘘をついた。いや、嘘ではないが、言わなかったことが一つある。この8年の間に一つ重要な点で変わったことがある。

ほかでもない、自分はもはや万人が政治の争点を理解する合理的な有権者になれるとは信じられなくなっている。もとより抱負とは願望だからちょっとくらい現実味がないことを言っても許されるはずだが、それにしても近い未来にそんなことは起こるまいと思うようになった。だから抱負は抱負として保ちながらも、もう少し現実的な政治へのかかわり方も模索しないとならないなと考えるようになっている。

意識高い有権者という幻想

そう思うようになった直接のきっかけは SNS である。ネット上でいろいろな人が政治に関するやりとりをしてるのを見、また自分でもそれに参加してみたのである。そして自分が抱いていた希望が絶望的に幼稚であったことを認めざるをえなくなった。もとよりこちらは政治を専門に何年も学んできた身である。自分と周囲の人間の主観は遠く隔たっていることくらいはわきまえているつもりであった。しかし、その乖離がこれほど大きなものであるとは思わなかったのである。

さらに悪いことに、人様の問題だけではないこともわかってしまった。政治を学問として学んだ自分たちをふり返ってみても、他人に期待しているような政治参加をするような準備があるとも思えない。それには二つ理由がある。

第一の理由は一般人の問題と同じである。大学院生ともなれば、さすがに政治的な立場の違いを個人的な対立とせずに、話し合いをするだけの礼儀正しさはある。だが、自分などが気づいたのは、政治学を学ぶ者同士では、あまりに生臭い政治の話は避ける傾向がある。だから、妙な話であるが政治学者同士では、むしろ一般以上に政治についてつっこんだ話をしない。するとすれば、やはり自分と同じような政治的見解を持っている人たちの間である。

つまり、政治に関する意見は、開かれた意見交換や討論には何か馴染まないものがある。政治的信条には理性だけではなく感情が深く関わっている。それは人を仲たがいさせるから、気楽に誰とでも話すことができない。だから政治の理解というのは、日常の関係ではなかなか深まらない傾向がある。

第二には、政治学という学問の性質に関わっている。今日政治学を大学で教える理由として民主社会の市民を育てるという点が強調されているのだが、実は政治学という学問は政治の職業訓練とは異なる。それは政治家や官僚、市民としていかに振る舞うべきかという実践知や技術を教えてくれるものではない。そういう要素もなくもないが、大部分は政治とはいかなるものであるかを説明するような言葉の技を伝授するのが政治学なんである。

だから特定の政策の評価に関しては、政治学者は自分の専門分野でもないかぎりは、他の者より優れた見解を有しているとは限らない。自分なども税制、社会保障、教育政策などについて新聞で読む以上の知識を有していない。貿易政策に関しては人より知っていると思うが、特定の貿易協定の是非を判断することなどできやしない。やはりその筋の専門家の言うことを聞かなければわからんことだらけである。そうして、そんなことをぜんぶ基礎から学ぶには人生は短すぎるのである。

どうも、自分は意識の高い有権者を政治の救世主として見ていた。自分のような人間が増えれば政治もよくなるだろうと無批判に楽観しておった。だいぶん手前勝手な救世主待望論を信奉しておったのである。

世界を見るメガネとしてのイデオロギー

だから、素人だろうが専門家だろうが、個々の政策を是々非々の態度で評価する有権者を期待するのはバカげている。だが、だからといって人々の政治行動が完全に場当たり的であるとも言えない。人によって程度の差はあるが、一知半解のわれらがある程度一貫した政治行動をとれるのは、イデオロギーと呼ばれるもののおかげであると思う。自由主義とか保守主義とか社会主義といった「主義」「イズム」である。

イデオロギーというと「虚偽」という否定的な意味が付されていて、多くの人にとっては「お前の考えはイデオロギーに基づいている」なんて言われるのは面白くない。だから、自分にはイデオロギーなどないという人が増えている。しかし、そういう人に限って無意識のイデオロギーがある。

なんとなれば、複雑になった世界全体を理解可能なまでに単純化するためには、何らかのイデオロギーが必要になる。というより、イデオロギーが縮尺され単純化された世界そのものである。この助けなしには、世界は断片的で混沌としたものの寄せ集めにしかに見えないに違いない。

説明のために、次の「騙し絵」を見て、何が見えるか考えてほしい。

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そこに若い女を見た人と老婆を見た人がいるはずだ。同じ絵を目にしながら、そこにぜんぜん違うものを見たのである。なぜそんなことが起るのか。絵とは点と線の集合が空間に配置されたものである。同じ素材から異なるイメージを作り上げるのは見る者の主観である。騙し絵とは特定の点と線の集合が複数のものを表象しうるように工夫されている(たとえば若い女の耳が老婆の目にも見える)。

イデオロギーもまた主観に属するが、その主観が世界の様々な現象を断片ではなく一つの総体として表象する。パズルのピースを組み立てて全体でひとつの絵を構成するようなものである。そうして人々は狭い経験を越えて世界の全体像を得、自分をその中に位置づけることが可能になる。さらに、このイデオロギーは自分がいかに行動すべきかという規範的な指針も与えてくれる。かつては宗教がそうした世界観を供給していたが、近代においては世俗的なイデオロギーが世界を表象する言葉の大部分を供給している。むろん、多くの人はこのイデオロギー理解も断片的、折衷的であろうが、政治行動においてイデオロギーの文法を完全に無視できないところに、政治がパターン化される理由がある。

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