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歴史の読み替え(映画『鬼が来た!』の感想)

ツイッターなんかとちがって、note では生臭い政治は敬遠される。知的に洗練された方が多いから、あまり恥知らずな振舞いは嫌われる。自粛の際に note の利用者が爆発的に増えたらしくて、恥知らずな連中が note にも参入し始めたみたいだが、炎上しにくい仕様であるからほぼ黙殺されている。実にすばらしいな、公共圏とはこうあるべきだなと自分などは感心した。

だが、実は自分なども専門は政治であって、結構生臭い話のネタを抱え込んでいる。しかも批判が商売である。人を貶めずにポジティブなことばかり言って物事がよくなるならよろしいのであるが、どうもそういうふうには世の中ができてない。実は政治に限らず一般に批評というものが少ないところが、自分が note を少し物足りないと思うところである。互いを磨き合う交流の場というよりは商品を並べた商店街のような感じである。ほめないのであれば黙ってろ、他人の売り物にケチなどつけたら商売の邪魔するなと怒鳴られかねない。

この原則が他人の売り物だけではなく世の中全体にも適用されているようで、クソな批評がないのは素晴らしいが建設的な批評もまたない。時々見かけても、あまり読まれていないか、読まれてもウケない。ポジティブ応援系や「心情の吐露」系、情報提供系の記事と比べてさえ、スキの数が一桁二桁少ない。昔の文芸雑誌なんかとはかなり趣きがちがう。若い経営者文化に近いものが感じられる。人が試されるのは公共圏ではなく市場においてであるという新しくて古い思想がその背景にありそうである。

時代に乗り遅れた自分などは素知らぬ顔でたまに政治の話をしてみるわけだが、余り露骨にやるとやはり閲覧数が減る。だから、今回は映画の感想にかこつけてこれをやった一文を紹介しようと思う。9年前に見た中国映画であるが、いまだに自分のベスト・ファイブに入ってる。ネタバレを含むから、これから見ようという人は読まない方がよいかもしれない。

笑えない喜劇

『鬼子来了(The Devils on the Doorstep)』という中国映画をDVDで見た。邦題は『鬼が来た!』で、鬼子とは日本人のことであるらしい。映画に感心することがあまりない私であるが、これは今まで見た中でも五指に入るだろうと思われるほどよい映画だった(とエラそうなことを言えるほどの数を見たわけじゃないけど)。

太平洋戦争(日中戦争、大東亜戦争、十五年戦争の方が現実に近いが)の末年、日本軍に占領された中国北部の村での出来事。暮れも迫ったある夜、何者かによって、捕虜になった日本人兵士と中国人通訳が村に連れ込まれる。この二人を言われた通りに日本軍から隠し通すべきか、引き渡してしまうべきか、それとも秘密裏に殺してしまうべきか、村人はジレンマに悩まされることになる。

最初は喜劇調で、思いがけない出来事に右往左往して、我が身を守ろうとない知恵を絞る村人や捕虜たちの滑稽なやり取りをニヤニヤしながら見ていればよい。でも、話が進むにつれて、だんだん笑えなくなってくる。

喜劇というのは、観客が舞台の外側にたって、道徳的に優れた者としての立場から舞台の上の登場人物たちの行為を判断するから笑える。だが、観客自身がどうするのが正しいのかわからなくなってくるのだ。で、見る者も登場人物たちのジレンマに巻き込まれて、映画は次第にサスペンスの様相を呈してくる。

だんだんと捕虜も村人も神経がすり切れてくるのであるが、そのおかげで侵略者(及びその協力者)と侵略された者という関係を超えて妥協が成立する契機が生まれる。日本人/中国人という区別から始めるのではなく、互いの共通点から妥協点を探し始める。そして、その妥協は捕虜と看守の関係の歴史を招かざる客を親切にもてなしたホストの関係の歴史に読み替え、自らを欺くことによって可能になる。

この互いに都合の悪いところに目をつむる歴史観を前提に、捕虜は日本軍に返還され、村人は一応感謝される。そうして、日本軍と村人との間に互いの善意を確認する関係が成立したかに見える。見ている方もちょっと胸を撫で下ろすのであるが、この和解の前提になる歴史解釈の危うさが尾を引いて、双方が親睦を深めているパーティの最中にも妙な緊張感が漂う。そして、この怪しい前提に疑問が呈された瞬間に、善意に基づくはずの関係はびっくりするくらいの速度で破綻をきたし、物語は破局へと転がり落ちていく。

蓋されたクサい歴史

都合の悪い歴史には蓋がされる。そうしているうちに腐臭が漂ってくるが、人はこれに気づかないふりをする。気づかずにはいられなくなるまで。日本軍の占領下にある中国が舞台の話であるが、それが突きつける問題は特定の歴史的文脈を超えたある種の普遍性がある。

そうはいっても、その特定の歴史の産物である今日の中国人と日本人にはやはり歴史認識の問題に結びつけずにはいられない。戦争においては被害者であった中国にもまた蓋をされた歴史がある。実際に、DVDの解説によると中国では上映が禁止されてしまったそうだ。理由はわからないが、当局も今日の主流の歴史解釈に大きな疑問を突きつけるものであるという認識があったのかもしれない。

自分らを侵略の犠牲者にするだけの歴史で自らを欺く今日の中国人に反省を促す。これが恐らくこの作品の意図のひとつであると思うが、日本人も単なる脇役ではない。作者の意図ではないだろうが、歴史の読み替えに基づく善意の危うさというのは、最近の不毛な歴史認識論争を読み解く一つの視点を与えてくれるような気がする。

戦後の歴史は先の戦争の勝者の視点で書かれた歴史である。このような批判は半分あたっているのであるが、勝者となった者も決して道徳的に完璧ではないということがさらけ出されたのが先の戦争でもあった。戦後の歴史観は勝者の道徳観の危うさを糊塗するような形で歴史を読み替えてしまったのだが、そのために敗者に対する追求も中途半端なものに終わる。

我が身かわいさから歴史をねじ曲げて作り上げた日和見主義的な歴史観なのであるが、それによって得する人々が戦勝国のみならず敗戦国にもたくさんいたのであり、その筆頭は何を隠そう大多数の日本国民なわけでもある。

具体的には、東西冷戦の高まりのなかで、日本の戦略的重要性が米国に認識され、経済再建のために戦争責任の追及が中途半端に終わった。また賠償問題において米国の支持を背景に有利な交渉ができた。しかも多くは反共独裁政権との手打ちであった。このために、一般の国民は戦争の責任を一部の指導者に押しつけて、なおかつ賠償から生じたであろう重い経済的負担からも免れることができたのである。そうして、彼らもまた戦争の「被害者」であるという神話に安住することができた。

その歴史観に対する不満は国内外のいたるところでくすぶっていたのであるが、義務教育を通じて「正しい」歴史が若い世代に刷り込まれて、戦争により浮き彫りにされた様々な道徳的難問に再びふたがされてしまった。様々なジレンマとそれに対するマズイ対応の結果が、政府と政府の間の国際的な取り決めによって「解決」されたことになってしまった。

でも、この戦後の歴史観に対して修正主義者たちが疑念を呈した時に、偽りの歴史を前提とした国々の「善意」の関係も恐ろしく脆弱なものであることが露呈してしまった。

モラル・リンボ―の倫理

悪いことに、戦後の歴史観を批判する方も、自分に都合の良いように歴史をねじ曲げて自らを善意の犠牲者にすることに必死な輩が多い。いろいろ言っているけど、つまるところは「お互いのために、都合の悪い過去には目をつむろうじゃあないか」という脅迫まじりの提案のようにさえ思える。戦後の歴史観と修正主義的歴史観は一見敵対しながらも、自分たちの過去に正面から向き合うことを避けているという意味では互いに共鳴し合うのである。

映画の全編を通じて、観客が登場人物の感じている「宙吊り感」を共有できるのは、実は我々自身がいまだに彼らと同様のモラル・リンボー、つまり善悪がはっきりしない狭間に生きているからだと思う。道徳で白黒つけがたい領域で、登場人物はまずはかわいい我が身を守ろうとする。凡庸な寓話であれば、この利己的な行為がもたらす破滅的な結果を予期して、「こうすればよいのに、あいつらバカだな」と言っていればよい。だが、どうも我々も彼ら以上に賢い選択を有していない。そして、それはどうも自らの過去を突き放して見ようとしないことと関係している。

映画の結末は、どのようにこの未知なるものに向き合うべきかの指針をはっきりとは示してくれない。ただ見る者を善悪の狭間に置き去りにしてしまう。でも、決して道徳に対して皮肉な態度を助長しようと意図されたものではない。

それどころか、終戦から半世紀以上たった今でもお日様の光が当てられていない不正義が存在し続けていると訴えている。われわれ自身がその不正義の共犯者ではないかと問うている。善悪の狭間においてこそなんらかの倫理的な姿勢が要求されるのであり、それこそがわれわれに欠けているものであると示唆しているようにも見える。今日の歴史観が忘れてしまおうとする経験を掘り起こすことによって、そうした善悪の狭間の倫理の問題を眼前に突きつけようとしているようにも思える。今日の歴史認識論争が不毛なのは、まさにそうした倫理的な疑問に何らの答えも示してくれないからである。

様々な人々がどのようなジレンマに直面し、それにどのように対処し、どのような結果になったのかという数多くの物語を発掘していく。美談ばかりじゃなく、悩み苦しんだ末に愚かな決断を下してしまったような話をむしろ次世代に語り継いでいく。被害者が加害者になり、また被害者になり、次第に破局に近づいていく連鎖を浮き彫りにして、なぜこの連鎖を止められなかったのか考えさせる。これが歴史教育の一つの重要な仕事ではないかと思う。史実であろうがフィクションであろうが、そのような物語を避ける社会では大切な知恵が失われていくと思う。

(2011年10月10日)

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