あたしんちの大河ドラマ(イエ社会と進歩について)
前回は和田傳の小説を題材にして、家父長の気持ちを考えてみた。言ってみれば、外から見て判断するだけではなく、その人の立場になって内から家父長というものを見てみた。
そういう立場に自らを置いて考えてみると、茶飲み話くらいに思っていた母の思い出話なんかにもまた新しい意義が見出せる。登場人物たちの気持ちになってみると、このイエの歴史も下手な小説か大河ドラマになるくらいの波乱万丈がある。どうやら書き残しておく価値がある。そこで、母から聞いた話の断片をつなぎ合わせて見た。
以前にも話したことがあるかと思うが、自分の母方の実家は二本松の貧乏士族の末裔である。先祖は口伝によると福井にある何とかという寺の茶坊主かなにかであった。
その寺に丹羽長秀公が御寄りになって茶を所望された。そこに急な知らせがあって、丹羽殿が馬に乗って出陣しようとするところに、その茶坊主が「自分もお供させてください」と売り込み、しからば付いてこいということになったという。その戦か小競り合いかで手柄を立てたがために、丹羽殿に仕えるようになり、その孫の代に二本松に転封された殿に従ったわけだ。いくら何でも茶坊主を戦に連れていくわけはないから、きっと坊主くずれの僧兵か何かだったのだと思う。ニワ様を主君として仰ぐので、節分の豆まきにも「おにわーそと」とは言わずに「おにーそと」という。
周知のとおり、戊辰戦争において二本松藩は奥羽列藩同盟の側についた。そして新政府軍に攻め込まれ、殿様は何とか脱出できたが、士族の多くは戦死した。母のイエの惣領息子もまたその一人であり、後に妻と幼子二人を残して出陣したまま帰らなかった。当時は十六で元服したから、今だったらまだ高校生くらいの少年である。どこかを血まみれになって歩いているのを見かけたという人もあって、あちこち探したのであるが、とうとう見つからなかった。
残された嫁は、幼子二人を抱いて戦火の中を逃げたのだが、その際にこれだけはと持ち出したのが当座の食料とイエの家系図であった。その大事な家系図を米袋の中に入れて逃げまどうているうちに米ごと盗まれてしまい、これを非常に苦にしていたそうだ。
そんなこんなの心労のためか、この若い嫁も半年ほど後に二人の幼子を残して世を去ってしまう。祖父は槍の師範かなにかで、ペリーの黒船来航時は富津のあたりで警備を担当させられたらしいのだが、今となっては賊軍であり雇い主である藩を失った。
それで郡山の開墾に入り、農業などしながらこの孫二人を育てた。槍に代わって手にした慣れない鍬などを自分の足に打ち込んでケガをして、最初に農業から脱落したなんて笑い話が、地方史の教科書に出てくる。自分のいとこなどは家でいつも聞かされていた先代の話を学校でまた聞かされてびっくりした。
そうしてなんとか惣領息子を師範学校にやり、十六で出来たばかりの小学校の教師にすることができた。これでイエも安泰とほっとしたのも束の間、その跡取りは盲腸炎にかかる。当時はまだ村には医者がいなかったし、鉄道なども通っていない。二本松まで戸板か何かに乗せられて運ばれる途中で息絶える。
祖父はがっくりきたろうが、感傷に浸っている暇はない。イエのために一人残った孫娘に聟をとらんとならん(これが曾祖母であるおハツさん)。
そこで二本松から聟に来たのが、後にイエール大学教授となる朝河貫一の従兄弟であるらしい。資産も何もない貧乏士族のところによく来たなと思うが、「そんなに困ってるなら行ってやろう」と言ったと伝えられている。でも、朝河貫一の父親も聟入りするときに同じようなことを言っているから、聟に行かざるをえない次男、三男の強がりであったのかとも思う。
この聟もやはり学校の先生になり、出来たばかりの開成小学校の校長になった。武家はやはり畑仕事にも商売にも向かない人が多い。だけど読み書きはできたから先生になることが多かった。
この人は人格者であったらしく、ぼろをまとった貧乏な小作の子供などを見ると、自分の子の服をはぎとって与えてしまう。それで妻のおハツさんの方はしょっちゅう子どもの着物を縫わされていたらしい。そうしたこともあって、貧しい人々からも慕われて、今でも学校に記念の石碑が建っておる。
そうして二人の間にめでたく跡継ぎの長男が生まれるのだが、これは育たなかった。残ったのは女の子ばかりで、また聟を取るはめになる。そこに来たのが例の三春の旧家の次男である。この聟もまた自分で私立学校をつくり、教育者兼学校経営者となった。聟とは言え、自分で一国一城を築いた文句なしの家父長となった。
しかし、次の世代もまた男子に恵まれない。また聟をとり、私の母と妹と女の子二人が続いたあと、待望の長男が誕生する。喜んだのもつかのま、こんどは戦争が始まる。
これは余談であるが、郡山で空襲が始まったのは、東京より遅れることひと月の昭和20年4月12日であるが、そのとき祖母は次男を身ごもっていた。祖父や父親は学校の方に行っており不在である。それで長女である母(当時十歳)が妹と弟を連れて庭の防空壕に入る。いつ産気づくかわからぬ祖母は、腹の中の赤子と心中するつもりで家の中で一人(二人?)で寝ておったそうだ。弟はまだ幼過ぎたが、幼い妹が怖がって泣く。母も泣きたい気分であったが、自分が母の代役だと思うと泣くわけにもいかなかったそうだ。
幸いなことに、学校をやっていたこともあって、家族は誰も戦争の犠牲にならずに敗戦を迎えることができた。だが、戦後には学制改革により学校の存続が危うくなる。以前は祖父の経営していた女学校でも教員資格をとることができたのであるが、これができなくなったらしい。それで県庁に相談に出掛ける準備している矢先に、祖父が急死する。その跡を継いだ父親もまた若死にしてしまう。
大黒柱を立て続けに失った一家は、土地を売却して東京に出ることを決意する。子供の教育には東京の方が都合がよいし、頼れる親戚もいるからというのが理由だが、もう一つは私の母の叔母が医療ミスで急死して、残された三人の従兄弟たちが寂しがっていたからである。私の祖母は四人育てるのも七人育てるのも同じだと、従兄弟たちの母親代わりとなった。主婦で一生を終わった人であったけれども、自分の子だけでなく多くの甥や姪の面倒も見たから、葬式には孫や曾孫を含めて、八十人以上が集まった。自分などが葬式を出してもそんなに人は来やしない。イエに生きた人にはそんなボーナスがあった。
これも余談であるが、この死んだ大叔母の家は久我山にあって、戦時中米軍の飛行機が墜落したさいに、居間の屋根を全部もっていかれた。幸いケガ人はでなかったが、家の当主は仰天して、翌日すぐに孫たちを郡山へ疎開させた。むろん孫に対する愛情もあるが、戦争で跡継ぎを失おうものなら、自分が生き残ったところで余生の意味がなくなるのである。そういうわけで、イエ社会においては、子宝という言葉に親の子に対する自然な愛情以上の意味があった。
郡山の本家は学校を経営していて大きな地所があったから、戦時中は多くの従兄弟たちが疎開したり、戦後に外地から引き揚げてきたりして、いっしょに過ごした。それで東京に移ってからも、多摩川沿いを国分寺から狛江あたりまで自転車で行き来していたらしい。そんな因縁もあって、母の従兄弟たちは兄弟同様に育って、今でも仲がよい。
ここまでして親々が守ってきたイエも、今や跡継ぎがおらず、このままだと我々の代で潰えてしまう。子供の数が減ったのに、女の子は嫁に行くとことごとくイエの外に出してしまうのだから、一人っ子であれば確率からいえば半分近くの家は潰える計算になる。皇室だけの問題ではない。
イエや家父長の権威からの解放は個人を自由にした。だが、その代わり失ったものも多い(以下リンク参照)。同じ日本人と言っても、この百年ばかりのあいだに我々の生き方は親と子が互いにそれと認めることが難しいくらい変ったのである。「過去は外国」である。
イエ制度にはさまざまな問題もあって、今さら復古することは不可能であるし、またおそらく望ましくもない。しかし、自分が生きているうちにとりかえせない投資はしないという人ばかりになれば、社会の時間的視野がえらく狭まって進歩の努力に歪みが生じるのは、簡単なゲーム理論で証明できるはずだ。よくも悪くも、家父長というのはそういう長期の視点を身につけないと務まらない役割であった。
イエの制度と家父長の権威は近代的進歩の障碍とされるに至ったが、限られた範囲においては自分たちの生活を守り少しずつよくしていくための政治組織でもあった。この基礎経験があったから、日本においては近代への移行が比較的容易になり得たという説にも一理あるかもしれない。言ってみれば、欧米の「プロテスタント倫理」の代わりを果たしたのかもしれない。今となっては時代遅れな精神主義に見える二宮尊徳にも、神仏に頼らず自助努力で貧困を乗り越えるという近代的精神が確かに見られたのであるが、尊徳思想などもこの基礎経験から生じたものかもしれない。
こんな昔の話を蒸し返すのも、子どもたちには我々以上に時間の地平を過去と未来双方に向けて拡げてもらわねばならぬからであって、必ずしも反動とは限らぬ。
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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。