下地になるもの。
先立って白状しますが未完の文章です。
では以下をお読みくださいませ。
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noteはかなり久しぶりです(汗)
定期的に書き出そうと考えていても、これがまた敷居の高い…いやそうではなくて、表現が難しいことばかり考えていまして。
それだけが理由というわけでもないんですが、しばらくブログの世界から遠ざかっていました。
Twitter(現・X)の文字数縛りが程良すぎるんだよなぁ…簡潔に書くには充分な文章量でもあります。
ところで。
一昨年から変わらずに写真を撮り続ける日々ですが、時々考えることがあります。それは、自分の撮影に関するルーツはどこにあるか、ということです。
もちろん…私は割と特殊な立ち位置で写真に触れていた、という事実はあります。
あらまし…というほどでもありませんが、小学生のときに方眼紙で光の屈折率を習っていた、なんて経験はなかなかないですよね(笑)
所謂プロの方に習っていた、とでもいいましょうか。厳密にいうとプロのカメラマン…というわけでもないんです。
実はもともとはとある写真の部品に関する製造?を行っていた方に習いました。そして…
「写真に興味がある」
という一言に真剣になっていただいて、教えていただいたことがレンズを通した光の屈折でした。
恐らく基礎中の基礎…なんですが、小学生には敷居が高すぎました。ただ、写真は光なんだ、という漠然とした意識だけは残りました。
つまり、私の根底にある写真への意識は「写真は光」ということなんですよね。
これは冗談でもない話ですが、光を意識するだけで景色が変わって見えます。
そして、交差する光が景色を浮かび上がらせる…この感覚はとても気持ちの良い芸術なんです。
その意味では「何故」という概念が写真にとっては必要な意識付けだとも思います。
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1年前の文章。ここまで書いて未完のまま放置していました。今思えばもったいない話でした。
経緯が経緯だけにとりとめのない文章ですが、さり気なく重要なことを書き留めているので、あえてこのまま公開します。