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#68 こんなことがあった (小学2年生、夏休みの交通事故)
福岡に住んでいた小学2年生の夏休み、交通事故に遭った。
父方が熊本、母方が大阪で、軸足としては大阪にあるものの、数年毎に異動がある父親の仕事の都合で2歳で北海道、5歳で福岡に引っ越した。
大阪から熊本に行くことを考えると、福岡から熊本に行くことはそれほど大変でもないことから、夏休みに車で熊本は山鹿の父方実家を訪れることになった。大変でもないというよりも、近くに住んでいるのに顔を出さないわけにはいかないという義務感のようなものが主な理由だったような気がする。
その当時の父は既に仕事中心で家族旅行などに気を配るようなことはなかったので、最初から母が車を運転して私たち姉弟を熊本に連れて行く、そこで祖父母に孫の顔を見せるといった嫁としての為すべきことをして福岡の社宅に戻るというようなことを考えていたのかもしれない。父母の考えることに口を挟んだり、意思決定に関与することは、子どもがやるべきではないという一線が引かれている家庭だったので、親がこうする、と決めたらそれに従うしかなかった。
さて、当時としてはかなり珍しく、また大変だったと思うが、父よりも母が先に自動車免許を取得して、父の足がわりとしていた。父は接待などでお酒を飲むことが多いし、出かけた先でも昼間から何はともあれビールを注文する人だったし、母はお酒が飲めないので、その意味においては丁度良かったのだろう。1970年代に札幌で自動車免許を取得し、車を手に入れて運転していた。ただし、車の運転は必要に迫られてのことだったらしく、運転そのものはあまり楽しくは無かったのだそうだ。そして、基本的に駅までの送迎やスーパーへの買い物に車を使うこともあって、高速道路は出来る限り使いたくない人だった。合流が苦手なのと、おそらくは節約志向が強い人だったので、高速道路料金にお金を出すことが好きではなかったのかもしれない。
そういう事情で、小2の夏休みも、福岡の社宅から熊本は山鹿の祖父母宅まで、国道などの地道を使って向かっているところだった。
運転席には母、後部座席に私と弟が座っていた。
ある場所で信号が赤になり、母は車を停止させた。そしてその後ろを走っていた小型トラックは、信号を見落としてそのまま私たちが乗っていた車に衝突した。
父方の祖父母とは疎遠だったし、そもそも三男次女夫婦の子なので、長男教の母方の祖父母も孫にとっては気が置ける人だったので、祖父母宅に行く時には何か小言をいわれたりしないようにきちんとした服装をしておりこうさんにしていなければならないということぐらいは小2の段階で知っていた。そういう背景をもったお出かけなので、私はおそらくは社宅の誰かから譲ってもらった白っぽいワンピースを着ていた。
その白いワンピースについた血を見て、「あ、お母さんに怒られてしまう。」と思ったことはうっすらと覚えている。衝突のショックで後部ガラスが砕け、その破片で頭のどこかを切っていて、その血がワンピースについてしまっていたのだった。
運転席の母はむちうち、私は頭部に怪我、弟は幸い無傷だった。
もう少し大きい年齢だったらその後のことも時系列で覚えていたかもしれないが、事故直後のことは残念ながらほとんど覚えておらず、事故直後にワンピースの汚れを気にしていた次の記憶は救急車で運ばれている車内でのこと。
街中で見かける救急車に自分が乗っていることが嬉しいと思いつつ、これからどうなるのかわからない不安もあって、サイレンの音がやけに大きく聞こえた様な気がする。
私たちは鳥栖の病院に入院することになった。外傷はないものの安静にする必要があった母は個室に入り、頭に怪我を負っていたものの大したものではない私と無傷の弟は母の邪魔をしてはいけないので、これからどうなるのだろうと思いつつ、このまま病院で生活するのだろうか、2学期は無事に小学校に通えるのだろうかと心配になりながら、父をはじめとする親戚の大人たちを待っていた。うっすらとした記憶だが、看護師さんたちは私たちに優しかったような気がする。
多分、大阪の祖母と伯母が高速を飛ばして最初にかけつけ、次に父が、その前後に熊本の祖父母宅の親戚が病院に来たのだろう。そしてその大人たちで話し合い、2学期に間に合うように退院できるようにすること、それまで私たち子どもは熊本の祖父母が預かること、そういう風に決まったのだと思う。脳波を検査して問題がないとされた私と弟は数日後に熊本に連れていかれ、そして小学2年生の夏休みはそこで疎開児みたいな日々を送った。そちらについては別の機会にまとめたいと思う。
なお、入院中の母を事故を起こした側が見舞に来てくれたことがある。プロのドライバーさんで、夏の暑さや疲れでぼーっとなって居眠り運転をしてしまって、衝突事故を起こしたらしい。事故の被害者である私たちの中に命を落とす人や重度の後遺症を負った人はいなかったので、そういう苛酷な労働状況にあった運転手さんに対しては、処罰感情みたいなものは無かった。ただし、父親が謝罪をしている運転手さんに対して、「あ、いいですいいです。どうせこいつ(母)がぼーっとしていたんで、悪いのはこいつ(母)です。」と言ったことに対しては、明らかにこちらが被害者なのに母が悪い様な言い方をしたことがひどく不快だった。処罰感情はないけれど、事故の責任は先方にあるので、そこは被害に遭った妻子の絶対的な味方をして欲しかったと思った。
また、私の「心臓に毛が生えているんじゃない」エピソードに取り上げられることにこちらの脳波検査の話がある。検査室はひんやりとしていて、また、脳波検査は子どもには長く感じる程度続いたような気がするが、要はぐっすり眠ってしまい。その間の脳波が異常値になって病院の人を慌てさせたらしい。ええ、私は割とどこでもぐっすり寝るタイプなのでした。
そして、別項にまとめますが、もともと父方の祖母は私の母のことを好ましく思っておらず、三男坊であった父のことも子どもたちの中では厄介者扱いしていたこともあって、祖母としては、「別に(福岡に来たからといって)こちらに孫の顔を見せに来なくてもいいのに来ようとして、勝手に事故に巻き込まれて、孫の世話を押し付けられた」と思うのは仕方が無かったとは思いますが、そういう状況で預けられた私と弟(弟はまだ未就学児童ということもあって状況はよくわかっていなかった)の夏休みがピリピリしたものであったことは言うまでもありません。