見出し画像

イベント・お出かけメモ#30 旧明村役場庁舎

SNSで関西文化の日(2024年は11/16,11/17)の投稿を見て、対象施設の中で近場でこれまで行ったことが無いところはまだまだ多いなと思いつつ、行き方がイメージしやすそうなところとして、「旧明村役場庁舎」に行ってみることにしました。

建物正面から入ります

津市の説明によると、明村役場庁舎は、「旧明村役場庁舎は、大正5(1916)年に建設された建物で、1階が事務室、2階が議場として使用されていました。」「建物は、木造総2階建て、桟瓦葺、東西棟の寄棟造」ということでした。

洋風建築をところどころ和風で解釈したところが魅力的な建物でした。

青空に映える建物です

こちらは、三重に来て間もないころ、近鉄ハイクか何かで前を通り過ぎたことがあって、良い感じの建物だと感じた記憶がうっすらとあります。最近はまったく参加できていませんが、近鉄ハイキングは、車だと通り過ぎてしまうスポットをうまくまとめたコースを提案してくれるので好きです。気候と予定が許せば初心者コース(4kmくらい)で参加したいと思っています。

さて、津駅方面から関ICへ向かう道を右折して、対向車が来たらどうしようかと少し心配になる細い道を少しいったところに旧明村役場庁舎の駐車場があります。

ペンキが塗りなおされてすっきりした感じの建物になっていました。
こちらは、毎週土・日曜日に一般公開されているのだそうです。

開館を示す表示はあるものの、扉が閉まっているので、どこから中に入ることができるのか戸惑いましたが、試しに扉に手をかけると開きました。中には男性が一人いて、目が合ったので挨拶をしました。が、どうやって見学するのかまたも戸惑います。

「どうぞ」と言う感じの声をかけてもらったので建物の中に入ると、手指の消毒薬をかけてもらい、カウンターにある記帳ノートに記帳を求められ、さらに靴はその奥で履き替えて、という指示を受けます。

靴を履き替え、1階部分をちらちら見ます。間取りは事前にHPで見ていたのですが、元宿直室は会議室風になっていました。

現在は5・6年生用の勉強部屋になっているらしい

廊下なども好きに見て良い様でしたが、いまひとつ勝手がわからず、こうなったらメイン目的の2階を見て立ち去ろうかと思って階段に向かったところ、「こっちも入って見て」と声をかけられました。そこから解説付きで案内してもらうことになりました。

建物入り口すぐの部分が①役場時代の受付+事務エリアでした。今はギャラリー・資料室として使われていていました。

旧明村役場庁舎は、役場としての使命を終えた後に資料館として使われていたものの、平成に入ってからは部分的に破損しており、隣の小学校に通う児童の安全などを考えると取り壊すべきだという方向で話がまとまっていたものの、平成の大合併で津市に編入された直後に津市はこの建物を「国登録有形文化財」に指定してしまったため取り壊しができなくなり、それなら安全に修復してもらいたいと要望を出したものの、なかなか対応が行われず、ようやく平成27年から30年にかけて、修理・耐震補強工事が行われたそうです。確かに、耐震の鉄骨みたいなもので内部から補強されています。

そういえば、修復工事に関連して曳家工法の報道を聞いたような気がします。道路の道幅が狭い集落の道路に沿って建物が立っていたのですが、小学校が避難場所に指定され、そこへ消防車などがたどり着けないという事情もあって、建物を小学校側に移動させ、元の場所が駐車場になったみたいです。立て直しをしなかったので、建物内部もある程度は往時の形で保存できたらしいです。

①の部分には、所さんの番組で紹介されたらしい金庫が存在感を持っていました。なんでも、元は隣の小学校にあったもので、教育勅語や御真影保管用のもの。その後、役場になったこの建物に運びこまれて使われていたそうです。私の父が亡くなった後に父の部屋の金庫も開けることできなくて業者の方に開けてもらったのですが、こちらの金庫も開かなくなっていたそうです。その解錠を先の所さんの番組で取り上げてもらったらしいです。数時間かけて開けてもらったものの、中に入っていたのは役場の人の名札ホルダーだったとか。

金庫横側

私の父の場合は、てっきり父が自慢していた腕時計その他を入れていると思ったのですが、開けてもらうと、私の最初の論文抜き刷り、多分父が大学時代に気に入っていた文庫、そして手紙が数通入っていただけでした。ちなみに仕事時代の晩年がホテル関係の仕事だったので、「ホテルなどは客の腕時計と足元で判断するから、俺もちゃんとしたのを身に付けているんだ」と言う具合に父が生前自慢していた腕時計は見つからないままでした。母以外の女性や友人にあげたか、あるいは退職後の遊ぶ金の捻出のために質に入れたのかもしれません。

話を戻しましょう。金庫の前でお話を聞いていたところ、実際に開けていい鍵はかかっていないから、と言われたので、金庫の扉を開ける機会を得ました。三重の扉でした。そして一番奥は、やはり御真影や教育勅語を置くからでしょう、百人一首の絵札の皇族のように、下部に畳が置かれていました。また、一番目の扉を開けると裏側に鳳凰(脱力感気味の鳥)が、二番目の扉の表側には右に日、左に月の日月が意匠として描かれていました。この役場の「明」に合わせると左が日で右が月だったら完璧だったのですが、そうではありませんでした。また、この日月意匠は金庫のメーカーの意匠(これ専用にデザインしたものではない)らしく、さらに聞き間違えでなければ北勢の阿下喜にも同じ金庫があって、そちらは「明」(右が月で左が日)だったそうです。逆だとこちらにドンピシャでしたね。


ギャラリー・資料コーナー

また、企画展示が軽便鉄道の安濃津鉄道だったので、それに関しても説明をしてもらえました。津新町から、こちらまで線路が伸びていたそうです(乗車時間約4時間)。地図を見ると当時の路線がわかるところもあるそうです。桑名の街歩きの時にも今は無い鉄道の説明を聞く機会がありましたが、私がぼんやり思っていたよりも鉄道網はかなり密だったような気がします。軽便鉄道、乗ってみたかったです。

①には修復工事の時にとりはずした建物のパーツや、明村役場庁舎を設計したとされる浦野甚松氏の子孫から寄贈された設計図などが展示されています。村役場庁舎建築の前に隣の小学校が建築されたらしいのですが、同じ設計者らしいということで、その情報を聞いてみると、確かに小学校と役場庁舎の趣は似通っていて、この地域においてモダンで兄弟のようなふたつの建物だったことが想像できます。

また、設計に際しては明治20年の津警察署と外観がよく似ていることから、そこから着想を得た可能性があるそうです。ちなみに、2階の案内の際に教えて貰いましたが、津警察署にはなく、こちらの役場庁舎にあるのが、入口の上にあるバルコニーなのだそうです。確かに、警察署の入口の上にバルコニーがあっても用途に困りそうな気がします。役場のバルコニーがどう使われたかは確たる資料はないそうですが、おそらくは出征の見送りに使ったかもしれないとのことでした。私は何か祝い事の際の餅まきにうってつけの場所だなと思いました。

①の裏手も案内してもらいました。外から見えていた事務室っぽい場所がもとは貴賓室・応接室だったそうです。会議で軍人やお偉いさんに足を運んでもらう際、役場の入口とは異なる場所から貴賓室・応接室に通してお茶などを出し、頃合いを見計らって2階の議場に案内するという動線が考えられていたそうです。確かに、仕事で学校を訪問すると事務室付近の部屋でお茶をいただき、時間になったら会場に案内されることがあるので、イメージはしやすかったです。ここはそのような接待用の場所なので、天井の明りがあったところのデザインがちょっと凝っています。①の事務エリアにはそういうものはないです。

現在はこちらが事務室として使われているそうです


貴賓室・応接室だったことをうかがわせる照明部分の意匠


こちらの急な階段を上って議場の上座に行くことが出来ます


螺旋階段側から入口方面
カウンターは従来のままとのこと。
カウンターの内外で高さが異なっており、役場職員がいる内側から来訪者を見下ろす、
いわゆる「お役所風」になっています。

会議場がある2階への階段はもともとは螺旋階段だったそうです。修復の際にそれでは建築基準か何かに適合しないということで新たに階段を設けることになりましたが、往時の面影を想像できるように螺旋階段部分も部分的に残されています。螺旋階段、いいですよね。踏み込み部分の幅が狭くて危険な印象を受けましたが、横幅が結構あるのでそんなに危険ではなかったそうです。

左側にあるのが部分的に保存された螺旋階段

2階は、天気が回復して日が差していたこともあって、明るくて素敵な空間でした。修復の際に会議場が畳敷きであることが判明し、現在は畳敷き。当時は正座とかあぐらで会議をしていたみたいです。そういう床に座る空間であることに配慮して、窓枠が人の腰の位置ではなく膝に近い位置にあります。立っていると低いな、ちょっと違和感があるなと言う感じなのですが、畳に座ると丁度いい感じなのだそうです。

2階の会議場。日が差し込んで明るいです。
近代日本の建築でよくみかけるミントグリーンの色も明るい感じに貢献しています。

長机が置かれていますが、なんとこれは隣の小学校の学童(放課後クラブ)として利用されているのだとか。指定文化財で放課後を過ごす小学生というのはとてもうらやましいです。ただ、周囲のものを壊すととてもやっかいなので、そういうところは大変かもしれません。


1階と比べると意匠が少しだけシンプルになっています

700枚くらいあるガラスの内、300枚くらいは古いスタイルのガラスで、今では国内で簡単に調達できるようなものではありません。なんでも東南アジアのどこかではまだそういうガラスを作っているそうですが、そこに簡単に注文できるというわけには、予算的にも手間暇的にも難しいのだそうです。


当時の村会議員は10名前後だったそうです。
その人数で畳に座って会議をする様子を見てみたいです。

窓を開け閉めさせてもらいました。少し持ち上げるとそこで止まる細工がなされていました。こういう細部がきちんと考えられているところが少し前のしっかりした建物のすごさだと思います。

バルコニー部分も修復工事の後は使うことができるようになったということで、バルコニーに立たせてもらいました。バルコニーから建物に向かって右側は今のガラス、左側が昔のガラスをはめていて、それぞれのガラスによって取り付け方が違うことを教えて貰いました。昔のガラスは釘3本で一枚一枚おさえているとのことでした。

バルコニーに立って話をうかがっていたので、大正期の建物に多いとされる木の組み方や、屋根の部分の特徴なども指差して教えてもらいました。ご丁寧にありがとうございました。

窓は鎧戸などがないので、台風の時が心配ではないかと質問したところ、風はそんなに大したことはないけれど、横殴りの雨だとやはり入り込んでくるし、あとは冬場はほこり(砂埃?)が吹き込んでくるとのことでした。建物は修復してそれで終わりではなく、その後のメンテナンスや掃除などの手入れをずっと行う必要があるので、そのあたりは大変だろうなと思いました。

維持費の支援を受けるためには、建物を活用している必要があるので、小学校の子どもの居場所として利用してもらったり、イベントを開催したり、来館者に記帳してもらってある程度の訪問者がいることをアピールしたりする必要があるのだそうです。


「三重のステキな歴史的建造物」(三重県教育委員会)より


国登録有形文化財 旧明村役場庁舎(津市のHP