⒎40歳から始めた事
〜癌患者を目の当たりにして〜
ワタシが33歳の時、家を建て替えることとなり、念願のピカピカの二世帯住宅に入居。初めてワタシは一人で家事も子育てもやる、不安よりもジブンの判断で何でも決められるワクワクでいっぱいだった。ワタシが作りたい料理を決めて、そのための食材を買う!だってもう台所じゃなくて、ガスオーブンも食器洗い乾燥器もついた憧れのシステムキッチンだもん。何ならブリも捌けるワイドシンクだし。料理に対する意欲が芽生えてきた!料理教室なんかも体験してみた。なんか面白〜い♪飛べる羽を得たアヒルは自由な毎日を満喫していた。幼稚園や学校の役員も積極的にやった。フットワーク軽いぞ。
数年が経ち、義父の前立腺癌が分かった。腰が痛いと整形外科に通院していたが、今思えば骨に転していたのだ。私たちもがん患者に接したこともなく知識がない。始めたばかりのパソコンで少しずつ情報を集めてみたが玉石混合で、やはり治療方針は医者や本人に任せるしかなかった。義父はひとりで闘っていた。診察もDr.からの説明も全てひとりで行き、家族には心配をかけまいと頑張っていた。特に義母には詳しく説明はしない。
義父は急に自転車通勤に切り替えた。今までは徒歩10分以上なら車で移動するくらい運動不足だったのに。仕事で忙しいのと運動は別だと思う。力仕事はするけど、脚を使うことはかなり少なかった。そのせいだろうと腰痛を疑い、がんの発見が遅れたのかもしれない。本人は薄々感づいていたのではないかと思う。きっと夜中に何度もトイレに起きていたり、残尿感があったのでは・・・?もう、同居はしていなかったので私たちも気づかなかった。
はじめの1年位は投薬や放射線治療で治るものだと思っていたのが、ある時から検査のたびに数値が悪くなるので、かなり焦ってきた様だ。ライオンズクラブの仲間から聞いた「食塩を抜いた食事でガンが消滅した人がいる」と言う話を聞きそれに倣った、ワラにもすがる思いで苦しんでいたのだろう。野菜中心食で塩をかけない様な、味気ない食生活は義母を疲弊させた。
昭和一桁生まれの割に体格が良く大食漢で 徹夜仕事もできちゃうスーパーマンのような義父だけど、心は繊細だから孤独でストレスに押しつぶされそうな毎日だったと思う。
ある朝、ふとしたことから動悸息切れで顔面蒼白になり救急車を呼んだことがあった。体力も気力も弱まり食欲減退で生気がなくなっていた頃だった。その後しばらくは在宅で安静にしていたが、とうとうスーパーマンは入院し意識混濁状態に。脳に転移していた。無塩食は何度も私たちが止めてもやり続け、体力を奪っていったのだ。意識が少し戻った時、やっと病院食を口に含み「おいしい」と子供の様に満面の笑みを浮かべた。無塩食なんて止めて、もっと美味しいものを食べてもらいたかった。その後は何も食べることなく逝った。
がんという病はワタシに色々なことを考えさせてくれた。義父は入院する前、がん治療で有名な帯津良一Dr.のもとを訪ねた事があった。ワタシも帯津Dr.の著書を拝読していたので「何もしてくれなかった」という義母の不満は違うんじゃないかなと思った。医者が病気を治すのではなくむしろ医者が施せる事は僅かで、患者さんが治したいという気持ちに力を貸すという帯津Dr.の姿勢に共感していたから。はっきりは言わなかったが残された人生を心穏やかに過ごすことをアドバイスされたようだ。
ワタシは人にとって「食べる」という事の意味が気になって仕方がなくなった。毎日美味しく食べていたものを絶ってまでフードファディズムに向かうことの危険性が気になる。「がんは免疫力低下が要因」「免疫は腸と関係が深い」事をネット検索し、興味は栄養と料理に向かった。ハタチの頃からお世話になった雑誌、お隣のおば様が買ってくれていた「栄養と料理」の通信講座で勉強し、家庭料理技能検定合格を目標にしようと決意。こうして偏食ガール、料理力ゼロのワタシのチャレンジが始まる。40歳からのスタート。人生を豊かに活きる(生きる)ため、受け身だけの人生は嫌だと、強く思った。
「栄養と料理」は女子栄養大学の月刊紙で、結構お勉強的な雑誌だ。ワタシは理数系は苦手で子供の頃から数学や実験の授業が好きという友人が不思議だった。同じ料理雑誌でもNHK「きょうの料理」の方がテレビ的なレシピだから華やかで美味しそう♪でも、料理番組や料理本を真似ているだけでは何か違うな、食生活全体を知りたいと思いはじめていた。家庭科だって得意じゃなかったんだから基礎を学ばなくちゃ。でも、通信講座も検定テキストも古臭い教科書みたいだ。が、
課題に取り組んで目から鱗!だったのが基本中の基本、卵料理「いり卵」。
そう言えば小学3年生の時、ワタシが初めて加熱調理したのはいり卵だった。近所に住む鍵っ子(共働きの核家族の子供のことで、当時は学童保育なんて無かったから鍵を紐で首からぶら下げていた)の久美子ちゃんに教えてもらった。片手鍋に卵を割り入れお砂糖をドボン、醤油をチョビっと入れて点火!菜箸でグルグルかき混ぜるだけ、簡単だよと。同じ歳の女の子がオトナのいない台所で加熱調理していることに衝撃を受けた。当時流行のインスタント麺「サッポロ一番」も作ってくれた久美子ちゃん、初めて食べた味噌ラーメンが美味しくてビックリ。味噌汁以外に味噌味の食べ物があるなんて信じられんと思ってた。ワタシは危ないからとマッチで火をつけること、ナイフで鉛筆を削ること、台所で火を使うことは心配性の母に禁じられていた。コドモがやりたがることほど親は禁止するんだよね。そこをなんとか突破するのがコドモの成長になるんだけど従順なワタシはやらなかった。
通信講座で知った【メチャ美味しい♡いり卵レシピ】
卵・・・2個=100g
砂糖・・・大さじ1/2強(卵の5%)=5g
塩・・・少量(砂糖の甘さ引き立て役)
醤油・・・少量(ほのかな醤油の風味)
①卵を割り入れ(私は行平鍋に入れちゃう)砂糖、塩、醤油を加えて箸で卵白を切るようにして泡立てないようにかき混ぜる。かき混ぜすぎは卵のコシがなくなり、ふんわり仕上がらない。卵白は「外水様卵白」「濃厚卵白」「内水様卵白」「カラザ」からなりドロンと粘度がある。さらに加熱凝固温度は卵白は70〜80°cなのに卵黄は65〜70°cで固まる。コシをなくすことなく攪拌して均一にするなんて難しい。そこで②の技法が効果的、なんだと思う。
②鍋を中火にかけ、卵の周りが少し白くなり始めたら、濡れ布巾に鍋を置き菜箸4本でかき混ぜる。これはコンロの上だと余熱で鍋の温度が上がりすぎるのを防ぐため。卵白、卵黄の凝固差を無くすため、菜箸の間隔は広げて持ちかき混ぜると細かいいり卵に仕上がる。のだと思う。重要なのは火にかけたまま混ぜないこと!
③再度火にかけて、また卵に火が入りかけたら、濡れ布巾に鍋を置き菜箸4本でかき混ぜる。これを後3回くらい繰り返すと、しっとりふっくら繊細ないり卵の出来上がり♫この丁寧さが優しい美味しさの秘訣。なんだと思う。
「習うより慣れろ」と言うけれど全くその通り。いくら理屈をこねられても合点のいかない事はやらないでしょ。「手抜き」するって事は「やらなくていいじゃん」って思ってるからで、そのために何度も失敗してきた。もちろん手抜きしても結果オーライって自分が納得するんなら良いのだけど、きちんと作ったら美味しくできた料理を食べたら、ついこだわっちゃう。そこは経験値の積み重ねと自分なりのボーダーラインなんだよね、きっと。お金をいただく料理屋さんと家庭料理との違い。自分が疲れ果てるまでやると毎日は続けられないし。料理力ゼロからの遅いスタートは数をこなすことが結局は近道だと、料理の基礎から学んで理解した。
卵料理は火加減が重要!強すぎるとボソぼして食感が悪くなるし、弱過ぎても生臭くて美味しくない。卵ってごまかしが効かない正直な食材だよね。久美子ちゃんに教えてもらったいり卵は大雑把だったけど、自分で作ったからそれなりに美味しかった。でも、ちゃんと基本を知ると全然違うんだ!って感動しちゃった。
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