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「おまねこくん」問題から認知について学ぶ

先日Xを何気なく眺めていて、フィードに流れてきたひとつのポストが目に留まりました。その投稿主は御前崎分屯基地の公式キャラクターである「おまねこくん」を取り上げて、「女性器を連想されるネーミングのキャラクターを使用するとは何事だ!」と憤慨していました。

2次元のキャラクターをめぐる「性的消費か否か」という議論は、本当に後を絶ちません。テキトピアな生き方を推奨する私としては、心底どうでもいいお話ではあるのですが、人間の認知を学ぶにはとてもいい議題です。
(テキトピアって何…?という方は最下段をお読みください。おそらくこのnoteもそれなりの長さになりそうなのでスクロールはお手間かとは思いますが)

この「おまねこくん」、批判している投稿主(もう誰かは忘れました)いわく女性器を連想させるとのことですが、当初は私は何を言ってるのかさっぱり分かりませんでした。しばらくして「ああ、一文字かえてスラング(?)の女性器と誤読するのか」と気づきました。要するに、投稿主の言う「連想させる」に私は含まれていなかったということです。

↓おまねこくんはこんな感じのキャラクターです↓

https://www.mod.go.jp/asdf/omaezaki/1/kichishoukai/ten.html

ちなみに、私がこの「おまねこくん」の絵を見た時の認知は以下の通りです。忖度なしですので、表現が厳しいものになってしまったら申し訳ございません。

  1. ねこのキャラクターである

  2. ちょっと俗っぽいデザインであまり好きではない

  3. なんでズボンはいてないの…?

  4. オスなの?(メスに見えた)

  5. 「おま」はなに?→検索

  6. 御前崎の「おま」と名所の猫塚の「ねこ」で「おまねこ」か

…といった感じです。正直言って好みのデザインのキャラクターではありませんし、正直デザイン的にちょっと万人受けするものではないな、とは思います。しかし「性的な表現だ!!」とXに投稿するまでのものではありません。

ではなぜ、投稿主はXにわざわざ自分の認知を主張するというリスクある行動をしたのでしょうか?

おそらくですが、それが認知・認識というテーマにつながります。

人は「見たい物を見たいように見る」というのが心理学の範疇では言われます。最近流行りのアドラーさんの提唱する認知に対する見識です。これは私も真実だと思っています。というか、事実Xで毎日レスバに明け暮れているような人たちがそれを証明してくれています。

例えば、目の前にリンゴがあったとします。リンゴに対してあなたはどのような感覚を持ちますでしょうか?

赤い?
おいしそう?
丸い?
大きい?
小さい?

対象を見た人の状況、性格、人間性など様々な要因で対象物に対する認識は変化します。リンゴにしても、おなかが空いていれば「おいしそう」に見えるでしょう。これが「人は見たいようにものを見る」ということです。

大変失礼な言い方にはなってしまいますが、「おまねこくん」を見て名前が性的だ!と憤慨したXのその方は、前提として2次元のキャラクターに対して「性的コンテンツであることが多い」という色眼鏡を使って認知しに行っている、ということです。その理由までは知らないですが。

しかし、そこで認知のお話を終わりにしてしまうと、その投稿主さんも「ああ自分は二次元キャラに対して性的な見方しかできない人間なんだなぁ…」で終わってしまいます。実際、認知はその人のアイデンティティーですから、変えていくのは難しいものです。ですが、そこで「テキトピア的な考え方」を私は推奨します。

テキトピア的な生き方では「ものごとをテキトーに捉える」ことを推奨しています。認知は認知、それでいいだろうとまずは考えてください。「おまねこくん」を性的な目で見てしまった。まずはその事実を事実として認識しましょう。そして、大切なのはその先です。
なぜその自分の認知をXに投稿してしまったのでしょうか?おそらくですが、自分の中で許せない何かがあったのでしょう。この許せないという気持ちは、他者の認知を自分の認知の土俵に引きずり込みたい、納得させたい、賛同されたいという気持ちがあったのかもしれません。

テキトピアにおいては、他者の認知は「あなたはそう思うんですね」で済ますもの、と捉えています。どこまでいっても自分は自分、他人は他人。あなたが思っていることは、他者にとってはっきり言ってあまり意味も価値もありません。自分の価値観と他人の価値観を戦わせることには、あなたが思っているほどの大義名分はないのです。なにか得るものがあったとすれば、価値観をぶつけた相手からの嫌悪感と、すこしの自己満足だけです。

今回の件で言うならば、自分はおまねこくんを性的なコンテンツだと認知した。だが、他者にとってはそうは見えないかもしれない。このギャップを自分の認知と同じタイミングで可能性としてあらかじめ考慮しておくことをおすすめします。
そうすることで、別に自分の認知は自分の認知として、他者にその認知をぶつけなくてもよいような気持ちになりませんか?
だって、他者からみた自分の意見も「あなたはそう思うんですね」程度のものなんですから。

さて、どうでしょうか。非常に自分勝手な意見だと思いましたか?

ですが不思議なことに、この「あなたはそう思うんですね」を大切にすると、人からは好かれます。なぜなら、この生き方は「他者を否定したり、自分の意見を押し付けたりしない生き方」だからです。あなたの周囲に人付き買いが上手で誰からも好かれる人はいますか?もしくは反対に誰からも苦笑いをされているような人はいますか?その人たちはどういう性格の人たちでしょうか。想像をしてみると、おのずと答えは見えてきます。

人の認知は変えることが難しいものです。というかやるほどの価値があなたにとってないものです。しかし、他人の生き方を容認することはそれほど難しいことではありません。なぜなら、他者の生き方は自分の人生にはそれほど大きな影響を与えないからです。合わない考え方の人とは心理的な距離を取ればいいだけです。

そしてなにより、他者は他者、自分は自分、違っていてそれでいいという考え方は、自分の心に大きな余白を持たせてくれます。

自分の考えは正しいんだ!
周りが間違っているんだ!
だから自分の話を聞いてくれ!
俺の意見に納得してくれ!
俺の主張に賛同してくれ!
誰でもいいからいいねをしてくれ!

こんな生き方、楽しくないですよね。
でもこの考え方を捨てて、ある種テキトーに他者と向き合うことで、人生はゆるやかになり、視野を広く持つきっかけとなるはずです。

話が随分大きくなってきたので一度まとめて終わります。

まとめ

  1. 人の認知はそれぞれ違う

  2. その違いを「あなたはそう思うんですね」で流すことは大切

  3. 自分の認知を周囲に納得させようとするのはやめた方がいい

  4. 他者の認知に対してテキトーに構えると、人に好かれる

  5. テキトーであることは楽

はい。こんなところです。いかがでしたでしょうか。
最後に、私の提唱するテキトピア的な生き方をまとめたバイブル。テキトピア教典をご紹介して終わりたいと思います。
ご興味のある方はぜひご覧ください。

それでは皆様、良いお年を。
(とか言ってまた年内に更新してたらすみません)

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