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「死にたいとは思わないけど、生きていたいとも思わない」という人。

「死にたいとは思わないけれど、生きていたいとも思えない」。
この気持ち、決して珍しいものではありません。むしろ、多くの人が一度は通る感情ではないでしょうか。日々をなんとかこなしているけれど、その先に大きな希望や意味が見つからない。特別な不幸があるわけでもないけれど、胸を張って「生きるのが楽しい」とも言えない。そんな時期が続くと、「これは自分がおかしいのではないか?」と不安になることだってあると思います。

でも、テキトピア教的に言わせてもらえば、この状態はまったく「異常」ではありません。それどころか、むしろ「それが普通」だと言いたいくらいです。

▼テキトピア教って何?って人はよかったらこちらをどうぞ▼

人間は、生きる意味をずっと考え続けられるほど強くはできていないのだと思います。
だからこそ、誰かが「生きることは尊い」とか「命には意味がある」なんて美しい言葉を掲げたくなるのでしょう。
でも、そうした言葉に触れても、「で、結局なんなんだ?」と心が納得できないこともありますよね。
大丈夫。それでいいんです。納得しないまま生きていくのも、十分立派なことです。

テキトピア教では、こう考えます。
「生きていたいと思えないのなら、生きていたいと思うことを目指さなくてもいい」と。
むしろ、「生きていたいと思わなくてもいい」ことを許してあげるのが、最初のステップだと思います。だって、その気持ちは今のあなたにとっての「テキトー」なのです。
自分の気持ちに正直でいることの方がずっと大事です。

たとえば、花は咲きたいと思って咲くわけじゃありませんし、風は吹きたいと思って吹いているわけでもありません。
それでも、花は咲いて美しいし、風は吹いて心地よいものです。
人間だって同じように、「生きたい」と思わずとも生きているだけで、それで十分なのです。

「じゃあ、どうやってこれからの日々を過ごせばいいの?」と思うかもしれません。テキトピア教はこう提案します。
「特に何もしなくてもいい」
「適当に、ただ今日をやり過ごすのも立派だ」と。

おいしいものを食べる、なんとなくゴロゴロする、ふと空を眺める。そんな「生きる意味」とは関係のない小さな行動が、実はあなたを少しずつ救ってくれるかもしれません。

生きていたいと思えなくても、死にたいと思わないあなたには、すでに一つの力があります。
それは、「なんとか今日を過ごしている」という事実です。これは小さな奇跡です。
誰かに見せびらかす必要も、評価される必要もありません。ただ、その奇跡を積み重ねていくのが、テキトピア教的な「生きる」の形です。

だから、どうか焦らないでください。
「生きてたい」と思えない自分を責める必要はまったくありません。そんなあなたもまた、ただの「ありのままのあなた」なのです。

それで、十分です。

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