「キャンセルされた歴史を取り戻す」”これでも侵略か” 満州事変と満州国建国4

邦人保護の任務を全うした関東軍部隊:https://youtu.be/4GY1_yA2YkA

みなさん、こんにちは。キャンセルされた歴史をとりもどす、これでも侵略か。今回は、満洲事変と満州国建国4、最終回です。米軍の引揚と同時にタリバンが侵入し、アフガニスタン政府は崩壊しました。同じように、日本の停戦と前後して、ソ連軍、毛沢東共産軍、蒋介石国民党軍が満州国を侵略、満洲国は、消滅しました。このとき満洲国在住の邦人の運命に危機が迫ります。8月9日ソ連軍は、日ソ中立条約を破り、満州国に武力侵攻、在留邦人の苦難と悲劇が始まります。8月14日、旧満州のかっこんびょう(現在の中国内モンゴル自治区に向けて避難する、日本人1千数百人に向けて、ソ連軍の戦車隊が機銃掃射をしました。生き残ったひとは僅か百数十名という、残酷きわまりない事件が起きました。彼らを護る関東軍はすでにいなかったといいます。軍は命令で動きますが、軍上層部は誰一人、邦人の安否を気にかけなかったのでしょうか。アフガニスタンの首都カブールが、タリバンによって占拠されたとき、邦人を置いて逃げた日本大使館員とまったく同じように思えてしまいます。関東軍の本来の任務は、満洲在住の邦人保護でした。しかしその時満州にいた関東軍は、精鋭部隊が南方に移り、士気も戦力も著しく落ちていたようです。満洲にいた関東軍は、8月15日の降伏命令の玉音放送に従い、ソ連軍や共産軍に武器を引き渡してしまいます。その結果、ソ連軍による違法な日本兵のシベリヤ連行、強制労働や、残された邦人が自力で脱出する際、先ほどのような数々の悲劇が起こりました。工業の発展した満洲国を占領すれば、なんとかなると考えた毛沢東、蒋介石。またソ連軍まで、製鉄所などの機械設備を強奪したのでした。毛沢東共産軍は、満州国の首都、新京の外側に陣取り、国民党軍は新京内に陣取る。どちらからも物資が入らず、日本人の引揚者の子供たちは、多くが餓死してしまいます。日本人を餓死させるため、共産軍の八路軍はわざと門を閉ざしたのです。この恨みは、日本人の記憶に永久に残ると言われています。遠藤誉氏がお書きになった「チャーズは、この時日本人が中国人から受けた、残酷な仕打ちを明らかにしています。また満洲人も、国を失い、その後中共に支配され、満州語を禁止され、洗民され、同化政策の対象とされました。今のチベット、ウイグル、南モンゴルと同じです。このような悲惨な状況の中、降伏せず、武器を捨てず、邦人保護という本来の任務に忠実に従った関東軍もいたのです。軍の食料を分け与え、邦人を列車に乗せて送り出すまで、ソ連軍機械化部隊と戦闘を続けた、駐蒙軍司令官、根本中将麾下2千数百名の兵士です。そして毛沢東共産軍と闘いながら、邦人270名とともに北京方面に退却した、満洲の南端にいた下道大尉の部隊です。この詳細についてはユーチューブ「最門司桜の憂国日記をご覧ください。URLが、説明欄にあります。今から思えば、日本が2つの間違いを犯したのではないでしょうか。一つは、満州の権益を独り占めにし、外国を排除したことでしょう。満洲への投資も日本だけではなく、英米を引き込んで仲良く一緒に投資すべきだったのではないでしょうか。2つ目の失敗は、コミンテルンと張学良を甘く見て、西安事件を防げなかったことです。せっかくタンクー停戦協定締結により、満洲国の国境が定まり、中国側は満洲国の存在を黙認したのです。その後蒋介石は、毛沢東共産軍を壊滅寸前まで追い込んでいったのです。日本は安全保障上、満洲国に隣接する、華北五省を国民政府から独立させる工作を進めたのですが、このようなことをせずに、日本軍も、蒋介石軍に軍事顧問団を送るなど、共産党征伐に協力していたならば、歴史は変わっていたかもしれません。日本がこのとき賢く振る舞い、英米と協調していたら、そして英米も賢く振る舞い、日本と協調していたら、毛沢東共産軍は壊滅し、シナ事変も大東亜戦争もなく、チャーズの地獄もなく、満州国も満州人も健在で、ウイグル、チベット、モンゴルも平和で、原爆も落ちなかったはずです。日本は、侵略をした悪い国という、ある国々にとって、都合のよい政治宣伝を見抜き、本当の歴史を学んでこそ、日本の未来に、希望が湧いてくるのではないでしょうか。私たちの次の世代に、チャーズのような地獄の苦しみを、再び経験させないためにも、満州国建国と崩壊の歴史を、教訓としたいものです。みなさん、自由社の歴史教科書を読んでみてはいかがでしょうか。それではみなさん、さようなら。

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