中学歴史教科書 自由社VS学び舎 支那事変(日中戦争)(2)
前回学び舎の教科書は、「日本の侵略、中国の抵抗」と記述していて、
自由社は、日本政府は何とか戦争を避ける工作をしていたと記述していことを申し上げました。今回第2回は一連の流れを時系列にまとめてみました。これをご覧いただきますと、学び舎と自由社の記述の大きな違いをお分かりいただけると思います。このような表が教科書にも載ると生徒さんたちも理解しやすいのですが、文科省の検定は通らないのではないでしょうか。
なぜならば近隣国の中国が確実に嫌がるからです。
そうです。要するに近隣諸国の嫌がることは教科書に書かないという
「近隣諸国条項」です。今でも事実上生きているといわれています。
日本軍、日本人への挑発行為の時系列表
1936年12月 国民党の蒋介石が逮捕監禁されるという西安事件
1937年4月 蒋介石の長男がソ連から帰国
7月7日 盧溝橋事件 しかし、現地停戦協定が結ばれる。
7月13日 大紅門事件 日本軍のトラックを爆破、兵4人死亡
12日 蒋介石、10個師団の中央軍を上海に派遣します。
25日 郎坊事件、駅で日本軍が襲撃される
26日、 弘安事件、城壁上の支那軍が通過中の日本軍に乱射。
28日 日本軍は、今までの3週間の消極策を捨て、北平と天津の掃討作
戦を開始します。翌日29日作戦終了。挑発していた支邦軍は
北平と天津から南方に退却。
29日 通州事件 日本の駐屯軍が不在の間に中国人部隊と
学生らが日本人居住区を襲い子供や女性を含む223人
が最も残酷な方法で惨殺した。下は自由社側注P233
その間、上海方面に中国軍の主力15万人が終結します。このときまだ日本軍は、居留民保護のための陸戦隊2千500名くらいしか上海にはいません。しかも大幅な譲歩をして、一連の和平交渉を8/9に行う予定でした。
しかし、またもこの日、大山中尉と斉藤一等水兵が何者かに惨殺されてしまいます。これはその時の現場写真です。これは、朝日新聞、1938年発行の「支那事変写真集」の中のものです。前回お話ししましたように、これにより和平交渉は流れてしまうのです。
8/11、1万2千の中国正規兵からなる偽装保安隊が、上海租界軍備禁止地帯内に送り込まれます。これは国際法違反です。同日、日本は、上海に陸戦隊の増派を送り込んだのですが、それでも合計4千名でした。在留邦人2万2千名の生命、財産は?
誰が日本政府と国民党政府の和解を妨害していたのでしょうか?
日本側は、死体にも、自動車にも一切手を触れず、上海市長(中国人)と英仏米の官憲を招致した。
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