アリとキリギリスとネロ | 橋口 賢人
アリとキリギリス。
アリは美学じゃない。キリギリスは反面教師ではない。
と最近思い始めた。
「アリとキリギリス」は簡単に説明すると、
アリ=貯蓄や投資など将来に備える
キリギリス=毎日の生活を充実させて楽しむ
で、備えていたアリは冬を乗り越えられて、備えていなかったキリギリスは冬を越せたり越せなかったりするイソップ童話です。(結末が色々ある)
小さい頃からずっとアリ的教育を受けてきた。
目の前の興味のあることや楽しいことを我慢して勉強をすることが評価された。
勉強をすることは良い学校に行くことなどに繋がり、結果的に自分自身の選択肢を広げることになった。環境も進学するにつれて良くなっていった。
勉強を否定するつもりは全くないが(むしろ10代ができる最も有効な環境を打破する手段だと思っている)、30歳の大人になった今、「アリ的思考」だけが根強く残っているように感じる。
浪人をしたあたりから僕には「時間は有意義に使わないといけない」という呪いにかかっている。
だから、休日に家でのんびり過ごしたりするのが苦手だし、なるべく将来のためになりそうなことを探してしてしまう。
20代半ばまではエネルギーに満ち溢れていて、時間を極力将来のために使うことが自然にできていた。
しかし20代が終わりに迎える頃あたりから、走るスピードは落ちていき、周りの景色(今)を味わえていない自分に気づいた。
今までは目標などのゴールを掲げて、そこにたどり着く頃には次のゴールをすでに目標としていて無限にマラソンを繰り返しているような状況だったけど、それが自分の成長にも思えて心地よく思えていた。
30代に差し掛かるとそうも言ってられない状態になっていった。
いつまでも続くマラソンに完全に疲れてきてしまっている自分がいた。
同時に「僕は目の前のことをちゃんと味わえていない。人生を無下にしている」と感じるようになった。
今は遠くばかりを見ていた自分をリハビリしてなるべく近くを見て、味わうように心掛けている。
これは時間を今に使うキリギリス的思考を取り入れようとする試みだ。
話を改めて、「アリとキリギリス」は現代社会に置き換えると、アリはよく働いて将来に向けてしっかり倹約して貯蓄をする人、キリギリスは最低限働いて毎日を楽しむために時間やお金を使う人とよく表現されやすい。
このような例えから、アリをまじめに働く人、キリギリスを遊び人と思われがちだと思う。
でも実際にキリギリスはそうなんだろうか?視点を変えて考えてみたい。
キリギリスは歌っていた。残念ながらキリギリスの歌声はアリに感銘を与えることはなかったが可能性はあったと思う。
絵本の「アリとキリギリス」の描かれ方では、キリギリスを音楽に携わる芸術家には見えないかもしれない。
でもキリギリスに近い境遇を歩んだもう1人の有名人がいる。
それがフランダースの犬の主人公ネロだと思う。
ネロはかなり貧しい生活を送っていながら、なけなしのお金で画材を買い、絵を描いていた。
しかし街の人たちは色々あってネロをよく思わなくなっていった。
ネロは大切な人を亡くして頼れる人がいなくなり、希望の絵のコンクールにも落選し、生きる術もなく、最期にどうしても観たかった絵の前で死んでしまった。
ネロはそれでも最期に「僕は今、すごく幸せなんだよ」と言っている。
報われなかった人生ではあるけど、全うした人生に思える。
長すぎる寿命に怯えながら今を犠牲にする人生よりはまともに見えた。
絵を描き続けたネロと歌を歌い続けたキリギリス。両者ともに他者から非難されるべき存在ではないと感じる。
現実、芸術やクリエイティブに携わる人間でネロのような人は多い。
ジリ貧ながらも、自分の天寿を全うしようとしている。
世の中に受け入れられればご飯の豊富な夏のキリギリスだし、受け入れなければ冬のキリギリスになる。
どちらかではなく季節に例えたように、どちらにも移り変わっていくことがあり得る。
直近のパンデミックの際、芸術やクリエイティブは完全に冬だった。
幸い僕は冬を乗り越えつつある。と思う。
様々なアリさん方の手助けによって今日も生かされている。ありがたい。
アリの中にはキリギリスの恩恵を普段受けておきながら「冬に備てないのが悪い」と見捨てる人もいるだろう。
ネロに対して自業自得と言う意見もあるらしい。
だけど大概のキリギリスは影で普段から泥水をすすって生きている。
今後もきっとアリが美徳とされるだろうけど、少しばかりキリギリスも無下にせずに温かい視線や支援を送って上げて欲しい。
都合の良い話だろうか。
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