【無料】古典について
昨今、というか昔から、古典、いわゆる古文・漢文について、これを学ぶ意味は無いのではないかという意見がある。七面倒くさい勉強を嫌がる中学生や高校生ではなく、大人の中にもこれを主張する人たちがいる。
私には古典の素養・学識があるわけではなく、読んだというか触れたのもせいぜい高校生レベルの文章に過ぎない。そんな浅学の徒の私ではあるが、前段の意見には明確に反対である。
たしかに、何千年も前の、現在の目から見れば木乃伊(ミイラ)のようになった文字を今さら敢えて読む意味が分からないという学生たちの気持ちはよく分かる。あるいは、社会に出て何の役に立つのかという気持ちもよく分かる。学生たちが社会に出て、古典をまったく知らないままでいても、日常生活、またそれぞれの職業において困るということはほぼない。しかし、古典を学ぶ意義は、こういった現実生活を営んでいくために必要か否かという気分とは全然別の次元の話なのである。
私は不思議なのだが、学生はさておき、古典が必要ないと主張する大人たちは、古文・漢文、あるいは漢文・古文を知らずに、日本語というものが分かるとでも思っているのであろうか。
日本語、とくに日本の文字において、漢文はおじい(祖父)、おばあ(祖母)である。また古文は、おとう(父)おかあ(母)である(※注)。おじい、おばあの話を聞かず、おとうおかあの言うことも聞かないで、自分勝手に育ったような(言葉は悪いが)根の腐ったような日本語で、一体彼らは何を語ろうというのだろうか。あるいは、何を書こうとするのだろうか。
学生たちの中にも、そのうち結婚し、子を為す者もいるだろう。そのとき彼らは、おじいもおばあも、おとうおかあも不在の日本語で、自分たちの子に何を伝えるのだろうか。
繰り返しになるが、古典を学ぶ意義は、社会に出て必要なのかという下らない話とは全く違うものである。言葉は、人間社会、人間の世界の根幹をなすものの一つである。ゆめ疎かにしてはならない。
たしかに、古典を学んだ学生たちはそれをすぐに忘れるし、それを一生思い出さない者もいるだろう。だとしても、彼らが古典を学ぶ(少しでも触れる)機会を無くしてしまうことは、日本語にとって途轍もない損失になる、と私は考えるのである。
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