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読むことについて―アルファベット フォント・タイポグラフィ

 私は書くのが得意で、書くのがはやい。一方、読むのが苦手で、おそい。異常に遅い。

 といい条、実は文章に目を通すことは、はやくこれをなすことができる。普通の人よりはやいかもしれない。というのも私は中一の時に母に連れられて速読術を教える学校に一年ほど通ったので、それができるようになったのである。

 しかしこの速読というのは、羊頭狗肉のようなところがあり、読という字はまちがいだと思う。とりま通して見るということができるだけであり、精確にいうと、速通術、あるいは速目術といったほうがよい。

 読むことにおいて、速読するのは、殆ど意味がない。いちおう確認するといった程度のことであり、とても読んだ、読めたとは言い難い。速読したものはほぼ、99.99999999999%すぐ忘れる。

 読むというのは、他人の脳内、記憶、気持ち、考え、感情、思惑、思い、善意、悪意、皮肉に全身で飛び込むことである。そして何か、一文章、一文、一文字でもよいから、それを自分の血肉にすることである。中々、簡単なことではない。

 そのようにして私は読む。真剣に、真に受けるようにして読むので、必然的に遅くなる。

 読むと、文章や文字は増殖する。良い文章には必ず出典があり、隠された意味があり、ときには書いた人すら気づかないような、偶然のイメージ連想・連環がある。それを享受するのは読者の特権である。

 四半世紀ぐらいまえ、インターネット黎明期ごろに、欧米ではフォントの種類が豊富で文化として豊かであるがひるがえって日本語フォントはまだまだだ、という言説に出あったことがある。「ふーん、そうなのかねえ」と思ったが、いまではその言説はあやまりであることが分かる。

 あやまりというか、たしかに当時とくらべると日本語のフォントも増えていろいろな印象を伝えることができるようになっている。あやまりというか、アルファベット文字と日本文字(漢字平仮名片仮名)のフォントに対する考え方は、その根本が違うのである。

 アルファベット二十六文字、これで無限のように表現することができる。日本語は五十音、ひらがなカタカナ常用漢字千二百十何文字で、無限のように表現をなすことができる。

 漢字は、その数がいくつかは知らないが、何万、十何万かあるともいわれる。これは、漢字文化の人たちが、森羅万象をすべて文字にとじこめ、表現しようとしたからである。とめどなく増え続ける。

 利便、合理の考え方からいうと、アルファベットの方に軍配があがる。二十六文字を覚えれば、あとは組み合わせで何でも読めるし、書けるからである。

 私は現代中国の簡体字というのを苦々しく思っているが、必然でもあると思っている。簡体字は、中国版の平仮名片仮名であり、逆輸入ものである。何万もある漢字を覚えるのは不合理であり、時間のむだなわけだ。だから簡体にしたわけだ。現在、昔ながらの漢字を受け継いでるのは、台湾(繁体字)だけである。たぶん。

 簡体字は必然として、まあいいだろう、というわけだが、しかし昔ながらの漢字の学習もやるべきだと思う。専門の学者だけでなく、一般の子どもにもある程度は教えるべきだ。だって、簡体字だけの知識しかなければ、中国人は、自分たちの祖先が遺した、四書五経などをはじめとする、綺羅星のごとく輝く漢籍の数々を読めなくなる。それでいいのか。よくないよ。そうなると、中国の文化にとって、途轍もない損失になる。ほんとに。というか、むかし、日本語を悉皆ローマ字表記にしようという人たちがいたらしいが、今でもいるのだろうか。大馬鹿中の馬鹿である。絶滅していることを切に願う。

 西洋では昔からフォント文化が豊かだった、らしい。これも、必然である。何も西洋が進んでいるというわけではない。二十六文字の組み合わせで無限のように表現できるとはいえ、やっぱり、足りないのである。物足りない。だからフォント表現が増え、豊かになったのである。

 タイポグラフィ―という表現法がある。発祥は、アルファベット文化圏である、と思う。タイポグラフィーというのは、文字の並びを通常とは異にして、紋様や、絵のようにして並べ、あらたな表現をする、というものだ。

 具体例を挙げると、『虎よ、虎よ!』(アルフレッド・ベスター 中田耕治訳 ハヤカワ文庫)に使用されている。

タイポグラフィー

 私は最初これを読んだ時、「ふーん」と思った。とくに新しいとは感じなかった。もし私がアルファベット文化圏に生まれた人であったなら「すげえ」と思ったかもしれない。

 このタイポグラフィーの手法は、日本にも輸入されるようなかたちで、詩人とか作家でこれを真似する人たちがいた。今もいるかな。これらの人たちの作品を読んで、私は「ふーん」と思った。

 日本文字のタイポグラフィー表現に私がとくに新味も面白味も感じないのには理由がある。日本文字(漢字平仮名片仮名)は、表意文字である。表音のアルファベットとは違う。

 日本で使用されている文字は、その文字からしてすでにタイポグラフィーなのである。「山」「川」「草」などという、小学校一年生がべんきょうする文字からして、表意であり、読みも音訓あり、タイポグラフィーなのである。だから、わざわざタイポグラフィーにしても「ふーん。というかよみにくい」としか感じないのである。ちなみにこのタイポグラフィー的手法を使う画家もいる。これは、おもしろいと思う。

 日本文字は、漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字表記、外国語をそのまま使用する、など、文字表現としては、おそらく、世界で最もゆたかな表現形式を備えている。生まれつき。

 だから、これを読むのは、読み解くのは、生半可な作業ではない。汗をかきかき、ゆっくり、読む。何度もくりかえし読む。独自の文字の進化と歴史の重みで、文字がぱんぱんに膨らんでいるし、どうじに流れるようなスピードと、風に吹かれてとんでいくような軽みとはかなさがある。

 これを読むのは、大仕事なのである。

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