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親のきもちについて②
親はよく心得違いをするが、自分の子を所有しているという感覚に陥る。
私はもういい歳で、初老といってもいいような年齢であるが、私の母や、父はいまだに私にお小遣いをくれる。物もくれるし、食べ物もくれる。そしていつまで経っても、車に気をつけなさいとか、酒をのみすぎるなとか煙草はやめろ、やめられないなら減らしなさいと言う。
私に対してもそうだし、義理の娘(私の妻)にしても孫(私と妻の息子)にしても、いつまで経っても心配ばかりしている。時にありもしないことを言う。「いじめられているのではないか」「あんたは子をほったらかしすぎではないか」とか「伝染病かもしれない、病院に連れて行こうか」などと言う。
私にしてからがそうで、息子にたいして、帰りは暗くなるから自転車にはぜったい乗るなとか、雨が上がって間もない、路面滑りやすく事故の可能性がある、けして自転車にのるな、おい、聞いてんのかガキコラ、などと言う。
すこし抽象的にいうと、私も息子も現象ではあるが、実体はない。これという瞬間には個人、人格として顕現し、捉えられ、スケッチすることができるが、現象はつねにながれ、変化するので、私にしてからが私ではないし、その子も同じである。
要するに、私と子は他人であり、別人格ということである。
所有することはできない。そんな感じがするだけのことである。それが、家族というもので、つかみどころがないような、心細いような話ではあるが、しかしだからこそかえって家族なのである。
親は子を自分の所有と見なす。この迷妄からはけして逃れることはできない。生涯。
この迷妄ゆえに、さまざまな問題が生まれる。問題は私を変えるし、私の子も変える。ときには衝突する。というか、つねに、だいたいは衝突している。だって違う人間だから。
これら迷妄や衝突を経て、私と私の子は、あるいは本当の、まったくの他人になるのかもしれないし、迷妄や衝突をくぐりぬけて、対等な人どうし、ということになるのかもしれない。
でも、対等になることはけっしてないと思う。子はしらんが、親は親として、子が別人格ということを納得し、これを受け入れることはできない、と思う。
この迷妄が生み出すのが、家族という認識である。迷妄を克服することができれば、対等な人格と人格どうしということになる。
本稿は、どちらいいとか、どちらがわるいという話ではないし、それを決めるつもりも全くない。
条件、場合、そのときどきによってさまざまである、としか言いようがない。