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【連載小説 中篇予定】愛が生まれた日㉜20世紀の夏の南アルプス、しゃりバテ

 12年前、おれが山を登り始めた頃。前世紀(20世紀)のある年の夏。

 南アルプスを縦走していた。50キロの荷物を背負って。おれはその年新入生だったから主に食糧を背負っていた。パーティは四人。四人分の食糧を分けてかつぐわけだが、新入生の割り当てが一番重い。最初は。人は動くと腹が減るので食糧を食べる。食べて出す。山小屋のトイレや、間に合わない場合は山道から、わきにはいった藪の中で出す。

 というわけで、食糧はどんどん減っていく。なので最初はいちばん重かったおれの荷物は日程を経るごとにどんどん軽くなってゆく。先輩たちがかつでいるのはテントとか非常食、燃料など。テントはパーティ・リーダーがかつぐ。テントの重さは変わらない。さいしょから最後まで。リーダーは、ずっと重いままの荷物をかついで山道を歩く。さいごの日まで。

 この山行は約二十日間ちかく、天気に恵まれて、沈殿することがなかった。ちんでんというのは雨のために山小屋のテント場に張ったテントをそのままにして、その日はそこから動かないということ。要はまあ、山行する者たちの休日である。普通は一日か二日、行程の長さ、天候にもよるが、沈殿するのがふつうである。ちんでん用の余分の食糧も勿論持っている。

 おれたちは沈殿しなかったが、計算に合わないほど米を食べた。というか、おれたちの行程はそもそも設定に無理があった。通常から考えると旅程が長い。ながすぎた。パーティの数も四人、男だけ。先輩たちは色々計算したが、荷物が重くなり過ぎるということになった。まず、主食の米だけでとんでもない重量になる。山行では、朝、男一合半、女一合、昼はパン等の軽食、夜は男二合、女一合半の米を食べることとなっていた。誰が決めたのかは知らないけども。宮沢賢治は「一日ニ玄米四合」を食うと書いていて、そんなに食うかね、と普通は思うが、食うのである。日中ずっと山を歩いていると食う。というかもっと食う。

 昼は、カニパンという、蟹のかたちをした味も素っ気もない保存食のパンを食う。それだけ。足りるわけがない。なので旅程も中盤をまえにして、おれたちは非常食用の蜂蜜に手をつけた。蜂蜜をカニパンにつけて食うわけである。蜂蜜は一本しかない。遠慮しながらつけているがみるみる中身が減っていく。リーダーは、これは非常食だからもうダメだ。触るな、どっかいけ、ということになる。

 米はアルファ米である。これは小分けの、パッケージされた非常・保存用の米で、水だけで戻せる。火で炊けば、普通のご飯のようにしても食べられる。生米よりも重量が軽い。この軽量であることに目をつけて、おれたちは大量のアルファ米を背負ったのだが、この、アルファ米というのが、やっぱり生米とは違って、同じ一合半、二合といえども、何か、くいでがない。どうも少ない感じがする。というわけで、どんどん、量を増やしていく。朝二合、夜三合というふうに食べるようになる。

 南アルプスの景色は美しかった。地蔵岳、鳳凰岳、北岳(日本で二番目に高い)、農鳥岳、奥農鳥、塩見岳、なんとか、かんとか、茶臼山、光(てかり)岳などなど。たしかにうつくしかったが。

 飢餓。

 おれたちは非常食の蜂蜜の容器の口に吸いついて、甘い、蜂たちが集めた蜜を吸った。回して吸った。板チョコも食べた。これも非常食。無闇に飴玉をしゃぶった。

 そうして、夜のテントでは山を下りたら何を食べたいのかという話をした。第一位は、カツ丼。不動の一位。レトルト食とか、ふりかけ、インスタント味噌汁、まぜごはん、ルーだけのカレー、N谷園の吸い物(おれはこの先一生N谷園の吸い物は食べない)。。。そんなものにしか口にしていない身からすると、まずとんかつ、玉ねぎ(生の)、そして生卵(山では絶対に見かけない)。おれたちは覚醒しつつ、喋りつつ、陶酔していた。カツ丼の幻想。

 山なんてどうでもいい。はやく下りたい。

「カツ丼」

 とおれたちは言いながら、最終日の下山ルートを辿っていた。先頭をあるくサブ・リーダーが転ぶ。ごろごろ、おちてゆく。

 たちあがる。

「カツ丼」

 ほかの人なんてどうでもいい。かつ丼。おねがいします。もう一度だけ。一度だけカツ丼を食べさせてください。

「ここでやすもう」

 とリーダー言う。荷物をおろす。リーダーは一番うしろを歩いている。

「JJ、だいじょうか? ふらふらしてるよ」とリーダー。

「しゃりバテや」とサブ・リーダー。

 おれは水をのんで、飴玉を口に入れる。がりがりと噛む。座り込んでいる。ふらふらしている。下りたい。山をおりたい。電気と風呂、店とバス停、舗装された道路、食堂。

 食堂に行きたい。どんな店でもいい。何屋でもいい。

 文明が恋しい。おれは泣きそうになっていた。 

本稿つづく

#連載小説
#愛が生まれた日

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