【読書記録】「実力も運のうち 能力主義は正義か?」マイケル・サンデル 鬼澤忍訳
昨年から今年にかけて非常に話題になった。以前読んだ「7つの階級 英国階級調査報告」に非常に関わる話なので、興味があった。
よく見る「岡田斗司夫ゼミ」でも、あまりの内容の重さに予定より遅らせて取り上げたくらいである。
クチコミなどで内容を知っていた分、本旨について内容の割に学ぶところは少なかった。言ってしまえば、能力主義への疑問提起である。
だがそこまでに至る過程でも学びが多いのが良書の特徴である。この本は間違いなく良著だ。
いかにして能力主義という問題にたどり着いたか
まずは序論にて不正入試のくだりから。
もう一度、入試スキャンダルについて考えてみよう。世に湧き起こった憤慨の大半は、不正行為やその不公正さに向けられていた。だが、それと同じくらい問題なのは、不正行為を突き動かした考え方だ。スキャンダルの背後には、今では実にありふれているため気に留められる事もほとんどない想定があった。つまり、名門大学への入学は喉から手が出るほど欲しがられている褒賞だというものだ。
(p24 強調は編者)
何か問題が生じているとき、我々はその問題に逐一対処しようとする。しかし思慮深く考えるのであれば、その根本原因を突き止めることである。一般に根本原因を突き止めるのは難しい。本書ではこの話題を契機に能力主義の危険性へと話が進んでいくが、そんなテーマを与えるような、諸問題に通底する原因へスポットライトを当てる大切さを再認識させられる一文である。
能力主義を通した宗教的理解
第2章では能力主義の興隆の歴史を紐解く。かの難解なヨブ記について、Mosche Halbertal の “Job, the Mourner” を参考に、このような話を持ち出している。
ヨブが家族の死を嘆き悲しんでいると、彼の友人たちが(友人と呼べればの話だが)、彼はとんでもない罪犯したに違いないと断じ、その罪がどんなものかを想像してみるようヨブに迫る。これこそ、能力の専制の初期の事例である。(中略)自分が潔白であることを知っているにもかかわらず、ヨブは能力の神学を仲間と共有しているせいで、高潔な人間である自分がなぜ苦しめられているのかと神に向かって叫ぶ。
とうとう神がヨブに語りかけると、犠牲者を非難する残酷な論理をはねつける。ヨブと仲間たちが共有している能力主義想定を否定するのだ。この世で起こるあらゆることが人間の行為に対する報いや罰であるわけではないと、神は旋風の中から語る。(中略)天地創造は人間のためのものではない。擬人化されたイメージで示されるよりも宇宙が大きく、神の手際はより謎めいているのだ。
(pp.54-)
災いは悪事を働いた人間に対する神罰であるという考え方は能力主義の現れであるという的確な指摘、そして神は人間の考える人間のための能力主義に縛られるほど矮小な存在ではないという逆説という、それまでの宗教観の裏をかき続ける議論にはどこまでも驚かされる。能力主義はバビロンの時代にはすでに(少なくともユダヤ聖書においては)理論的に否定されていたのだ。はじめヨブ記を読んだときは、わかったような気になりながらも結局どんな話か掴めないでいた。原因の1つには神を巻き込む形の因果応報という理解に慣れていなかったことがあるのかもしれないが、能力主義という言葉1つでこうもわかりやすくなるとは。
では善行に対する報酬として救済が与えられないのなら、いかなる場合に救済されるというのか。そんな切実な疑問に対し、Kornman の “Confessions of a Born-Again Pagan” と Schneewind “The Invention of Autonomy" を参考にしながらルターやアウグスティヌスの考えを掲げている。
ルターのより一般的な主張は、アウグスティヌスと同じく、救済は全て神の恩寵の問題であり、善行であれ儀式の遂行であれ、神の関心を買うためのいかなる努力にも影響されないというものだった。われわれは天国への道をお金で買えないのと同様、祈りによって手に入れることもできないのだ。ルターにとって、神に選ばれることは自力では決して得られない贈り物である。聖体を拝領したりミサに出席したり、あるいは他の方法で自分の功績を神に納得してもらうことでチャンスを増やそうとするのは、神への冒涜と言っていいほどおこがましい行為なのである。
(p58)
これが因果応報に対してユダヤ・キリスト教が与える1つの回答である。我々は神を信じることで得るものは何もない。宗教に縋り付いてきた者にとって、こんな残酷なことがあろうか。
だが大衆が皆この理解であれば、宗教の求心力は薄れ、やがて誰も神を拝まなくなる。礼拝堂は廃れてしまう。宗教にのめり込む人は信心深いと思われるか騙されていると思われるか、いずれにしてもハスに見られる。そこで苦渋の決断かビジネスとして当然の決断か、免罪符に代表されるように「信仰している」という功績に対して救済を与えると説くようになってしまった。まさしく meritocracy である。
能力主義に対する横槍
20世紀終盤から隆盛を続ける新自由主義は、能力主義の権化と化している。「金を手に入れられるのは、人間として優れているからだ」という声すら聞こえてくる。そんな新自由主義の火付け役になったハイエクの意図を借りて、このように話を進めていく。
ハイエクは、市場で少なからぬ報酬を手にする人々が、道徳的にその報酬に値することを示そうとしない。そうではなく、経済的報酬は人々の功績、すなわち道徳的な手柄を反映しているという考え方を拒否する。これこそ、ハイエクが功績と価値を区別することの真意だ。自由な社会では、私の所得や資産は私が提供する財やサービスの価値を反映するものの、こうした価値は需要と供給の偶発的な状態によって決まる。それは私の功績や美徳、つまり私がなす貢献の道徳的重要性とはなんの関係もないのである。
(pp.187-)
「自分が裕福になるから」という程度の考えで新自由主義を掲げる人にとってみれば、これは信じられない横槍ではないだろうか。裕福かどうかは自分のビジネスが需要に一致したかどうかしか反映しておらず、それ以上でもそれ以下でもない。ましてや「優れているから金持ちだ」とは言えないのである。わかりやすいように本書ではこんな例も出している。麻薬密売人は教師の何倍、何十倍もの金を稼ぐが、果たして麻薬密売人は人間として優れているのだろうか。
金儲けであればこの論理を認める人であっても、差別意識になるとどうだろうか。かつての大統領選でドナルド・トランプにヒラリー・クリントンが負けたとき、エリートは口を揃えてこう言った。「学歴のない奴らは平気で人種差別をするトランプに票を入れる」と。当のエリートは自分が無学な人間に対しておおっぴろげに差別感情を抱いていることを隠さない。能力を持つということが優れた人格を示すという考えに、あまりにも染まりすぎている証拠である。エリートは自分の人格が思っているほど優れていないことに気づかなければならない。
能力主義は能力のある人間にも被害を与える
能力主義の文脈において、能力がある人間がない人間に与える被害は多く取り沙汰されるが、本書では能力のある人間に対しても大きなデメリットがあることにも注目している。
能力の戦場で勝利を収めるものは、勝ち誇ってはいるものの、傷だらけだ。それは私の教え子たちにも言える。(中略)心の健康に問題を抱えている学生の多さは、危機感を覚えるほどだ。(中略)アメリカの100以上の大学の67,000人の学部生を対象とした最近の研究では、「大学生が直面する精神的苦痛はかつてないほど大きく」、憂鬱や不安を感じる割合が高まっていることが明らかになった。大学生の5人に1人が前年に自殺を考えたことがあり、4人に1人が精神的障害の診断あるいは治療を受けたという。若者(20〜24歳)の自殺率は2000年から2017年までに36%上昇し、今では殺人の犠牲者よりも自殺者の方が多い。
(pp.260-
cf. Laura Krantz, “1-in-5 College Students Say They Thought of Suicide”
cf. Sally C. Curtin and Melonie Heron, “Death Rates Due to Suicide and Homicide Among Persons Aged 10-24: United States, 2000-2017” cdc.gov/nchs/data/databriefs/db352-j.pdf)
日米問わず、今や受験は10代のほぼ全ての時間を犠牲にして当たる勝負になってしまっている。いわゆる「青春」などというものは受験戦争の中には(少なくとも受験生にとっては)存在せず、下手すれば物心もつかぬうちから塾や習い事に追われる日々が続く。親にも責任があると思われるだろうが、親は子供の将来の幸せを抱えているという、まさにその責任のために子供を追い込むのであり、誰もが疲弊するシステムになってしまっている。それがアメリカでは自殺や精神的障害という形に、日本では反動で放蕩生活という形になって現れているのかもしれない。
経済学的システムの病理
では非難の矛先が向くのはどこか。やはり最終的には経済である。だがここでもマイケル・サンデルの思慮は深い。ひとくくりに「経済」とするのではなく、(純粋な学問としてよりかはビジネスマン向けの)経済学的な、机上の(空論ではないが)論理から導かれたシステムに的を絞るのだ。
GDP最大化への専心は、取り残された人々への援助が伴ったとしても、生産より消費に重きを置く。そして、自分を生産者ではなく消費者と見るよう我々を誘導する。実際には、もちろん、我々は両方の立場にある。消費者としても、自分のお金で買える最大のものを手に入れたい、財もサービスもできるだけ安値で買いたいと思う。それを作ったのが海外の低賃金労働者でも、高賃金のアメリカ人労働者でも構わない。一方、生産者としてはやりがいがあって報酬の良い労働を望む。
消費者であり、生産者であるという我々のアイデンティティーを仲裁するのは、政治の役目だ。ところが、グローバリゼーション・プロジェクトは経済成長の最大化を追求した結果、消費者の幸福を追求することになり、外部委託、移民、金融化などが生産者の幸福に及ぼす影響をほとんど顧みなかった。グローバリゼーションを支配するエリートは、このプロジェクトからそういった不平等に立ち向かわなかっただけではない。グローバリゼーションが労働の尊厳に与えた有害な影響に目もくれなかったのだ。
(pp.295-)
現代の経済が生産者よりも消費者に優しいシステムであることは一目瞭然だが、このシステムと能力主義の関係性に光を当てたのは、この本の中でも指折り数えられるくらいの功績であると思う。確かに経済という言葉を論ずるとき、かつては「いかに消費者に物を買わせるか」で語られ、大量生産大量消費社会が終わりを迎えるにつれて「いかに良いものを消費者に届けるか」と語られるようになった。今では巨大企業による超低額・無料サービスが繁茂し、消費者はそれを当然と思う中、生産者は消費者の期待に沿うために値下げ競争の真っ只中である。社会が良くなるなどという話をしている余裕はない。これでは「生産者としての」尊厳など手に入れられるはずもない。
それでも世界を本当によくしている人へ金が回っているのであれば、まだ救われただろう。実際はどうであるか。
金融は、いかに好調であっても、それ自体は生産的でない。金融の役割は社会に有用な目的—新しい企業、工場、道路、空港、学校、病院、住宅など— に資本を割り当てて経済活動を円滑にすることだ。ところが、ここ数十年アメリカ経済に金融の占める割合が激増するにつれて、実体経済への投資の規模は縮小する一方である。複雑な金融工学が経済のますます多くの部分を占めるようになり、関係者には莫大な利益をもたらしているが、 経済をより生産的にする働きは何もしていない。
(pp.308-)
こうも能力が無駄遣いされ、資本が無駄遣いされていれば、社会格差が不当に広がるのは当然であろう。ここでもう一度思い返してほしい。GDP最大化にしろ、金融の活性化にしろ、(純粋な学問というより経済人向けの利益を追求する)経済学ではよしとされていることである。
「能力主義」という日本語の問題点
冒頭からこの本を絶賛しているが、何も素晴らしいのはマイケル・サンデルの書いた部分だけではない。この本は東京大学大学院教育研究科の本田由紀氏による解説に至るまで、余すことなく示唆に富んでいる。
重要なのは、英語の世界では実際には「功績主義」と言う意味で用いられているmeritocracyが、日本語では「能力主義」と読み替えられて通用してしまっているということである(中略)。「功績」が顕在化し証明された結果であるのに対し、「能力」は人間の中にあって「功績」を生み出す原因と見なされている。この両者が混同され、「能力」という1つの言葉が、 あらゆる場所で説明や表現に用いられているのが日本社会なのである。その意味で、日本は「メリットの専制」と言うよりも、「能力の専制」と言える状況にある。些末な違いと考える読者もいるかもしれない。しかし、人々に内在する「能力」と言う幻想・仮構に支配されている点で、日本の問題の方がより根深いと筆者は考えている。
(p332)
確かに、宗教理解のところで「『信仰している』という功績に対して救済を与えると説くようになってしまった」と書いたが、これは「信仰できる」という能力ではあり得ない。「信仰する能力がある」という点だけを強調すると、かえって「信仰していない」という含みを持たせることになり、神に対して原意以上に冒涜的なものとなる。
原初では徹底して「功績主義」と書いていたのだ。実績がなくても能力で人を判断できるという意味を考えれば、meritocracyよりもタチが悪い。本書の中でアメリカと比較して日本はまだ能力主義改め功績主義が緩いと紹介されているのが救いではあるが、現在の日本の能力主義がそのまま成長していけば、おぞましい未来になるかもしれない。
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