自己肯定は、おきあがりこぼしのごとく。
できるだけじぶんを好きでいて、気もちよくマイペースに生きてこ。そう思っていても、誰かの何気ない言葉や態度によって、自分の大切なものが奪われたような穢されたような気持になることないですかね。私、たまにありますよ。そういうのに惑わされることがあっても、地道にじぶんを応援していこうよって話をします。
1.めげない。心の筋繊維がちぎれても
本日、私のための(強調!私のための)腹筋ローラーが届いた。筋トレにはまっている息子がさっそく箱を開けて使いたそうにしている。
案の定、私が使う前に息子がやりはじめ、開口一番「こんなんじゃ筋トレにならないよ。アシストなしにすればよかったのに」とクレーム。
私はへなちょこボディ改造中の身なので、戻りアシスト付きの初心者用こそがほしかった。やったことがある方はお分かりだと思うが、腹筋ローラーがブレーキなく先へ先へと転がっていくと、筋力のない人の胴体は重力に完敗し、胸も腹も脚もべたんと床にくっついて、自分の筋力だけでは二度と起き上がれない。私はそういう人なので、上級者用はむしろ要らない。
※筋トレをすることになった話は、以前の記事をご覧ください。
見込み通り私がコロコロやると、腰はまだまだ「くの字」の状態なのに、すでにみぞおちの筋肉がムンクの叫びみたいになって、私の口からはマンドレイクを引っこ抜いたときのような声が出る(ハリー・ポッターね)。
でもこれでいいの。私は自分の身体の伸びしろのエッジ部分をジャッジなしの無心で感じるというマインドフルネスをやっているのだから。1ミリずつでも一進一退でも、心身が満ちていくプロセスを楽しんでいるのだから。
息子は、マットの上で気前よく筋力を見せつけゴロゴロゴロゴロ。「余裕すぎて話にならない」というデモンストレーションをはじめ、そこに夫が乗っかってきた。若い頃スポーツをやってきた夫にとっても、アシスト付きの腹筋ローラーではまったくトレーニングにならないらしく、「俺なんか道具すら必要ない、もっと負荷の高いめちゃきつい腹筋トレーニングをしている」とのこと。
なんだなんだ、この連続マウンティングは。自分がすごいと思える機会(承認欲求を満たせる機会)を逸せず活用する能力は認めよう。しかしね、あんたたちのマウントで、私の心的筋繊維がちぎれて成長ホルモン値が爆上がり中なんだからね。いまに見てろよー。(完全に煽られとる)
2.自分のプロセスや物語のSOSを感知したら
大げさに話してはみたけれど、家族間でも友人間でもよく見る景色。まあね、私が腹筋ローラーでマインドフルネスしようとしているだなんて、誰も知らないわけだし。一足飛びに鍛えたり成長したりすることよりも、一進一退で遠回りでもいいから自分の心身と対話するプロセスを大事にしているなんてことは、家族でも知らないわけだし。そして、知っていても尊重するかどうかは別の話だし。
しかしね、これが社会のコミュニケーションの縮図なんだよなあ。じぶんだけの大切な小さな物語は、みんなが知っている標準化された大きな物語や声の大きな人たちの個人的に大きな物語に絡めとられていきがち。
「遂行できる」人がすごい。「より強く、より多い、より早い」方がすごい。「我慢できる」方が大人。「効率が良い」方が価値がある。「あなたより私」の方が優れている。みたいな物語に。
もっとできる人、もっと苦労している人へ、「すごいね」「えらいね」「いいね」「たいへんだったね」という承認や労いを手渡し、「さ、私も頑張るか」と自身の意欲につなげることができれば別になんてことない話。
でも、この手のさらっとした会話には罠があって、せっかくひそやかに進行していたじぶんだけのプロセスや物語が、世の中で良しとされている価値観に乗っ取られちゃうことがあるから注意ってこと。
他者との何気ない会話なのになんとなくザラっと残る感があるときは、じぶんのプロセスや物語がSOSを出しているかもしれないから、ちゃんとじぶんの内側に息づいているかを確認しよう。瀕死だったら、もう一度じぶんで丁寧に承認し蘇生しよう。
じぶんのプロセスや物語を守るときのチェックポイントは、「他との比較に足を取られていないか」、「自分がどこに満足や喜びを感じたいかを見失っていないか」だと思う。大きな物語には他との比較が意味があるけれど、小さな物語には他との比較は意味がなく、あったとしても過去のじぶんとの比較だから。
2.私的には、ばっちりなんです。
考察をしながら、「うーむ、なるほど。これはまさに、じぶんの物語を守れるか守れないかのエッジが表面化した一例だったわね」と、脳内にメモメモ。他にもじぶんのプロセスや物語を守る事例を思い出したので、一例を挙げておこう。
例えばカウンセリングひとつとっても、私は新幹線でも行けるようなちょ っと遠方に通っているのだけど、それだって「ポストコロナでカウンセリングも研修もオンラインが主流になっているのに、対面は効率が悪いでしょう」「有名な先生でもないのに移動時間が勿体なくない?」「なんでわざわざ東京を出るの。都内のカウンセラーの方が話が通じるんじゃない?」などなど、大きな物語の立場からは、色々なご意見を頂戴できそうなところ。
※カウンセリングを真面目に受けることになった経緯については、以前の記事をご覧ください。
でも、私のプロセスや物語にとっては、簡単でないことの方がよかった。オンラインでは私の重要なセンサーのひとつである皮膚感覚や嗅覚が刺激されないので、対面にこだわった。往復に時間がかかる分、日常と非日常のスイッチングをゆるやかにできるのが気に入っている。つま先立ちのお高く綺麗でいい匂いの抽象的な対話よりも、地に足がついていて土や汗の匂いがするような身体性を伴う対話を求めている。そして何より、高名ではなく名無しのカウンセラーを求めていた。加えて、その土地に残してきた“小さなしこり”こそ、ほぐして流したいことだった。
私的には、ばっちりなんです。
誰に認めてもらわなくても、じぶんの中に理由があること、他と比べても意味がないこと、じぶんが実際に手ごたえを感じていることは、簡単に手放さなくていいんじゃないかな。
他者の価値観で幅寄せされたときは、「ふぬぅ。いま、大きな物語に接触したぞ。世の中の多くの人は、このような価値観に窮屈な思いをしているのやもしれぬ。これも私が自由になるためのヒントだ」と、脳内にメモメモしておいたら良いと思う。
大きな物語から見る視点と、自分だけの小さな物語から見る視点、どちらもあった方がバランスよく生きられるという側面は確かにあるからね。
他の誰でもないじぶんが、
他の誰でもないじぶんだけのプロセスと物語を、
他の誰でもないじぶんのペースで、
悠々と。
ではまた。