耳じゃないなら、いったい何を使って聴いたのか
1.突発性難聴に見舞われた
10年以上前、駆け出しのカウンセラーだった頃のこと。血気盛んな20代の私は、プライベートのあれやこれやをこじらせまくっていた。挙句に突発性難聴に見舞われ、人の話し声がほぼ聞き取れなくなった。
耳のそばでひっきりなしに暴風が吹いているようなバタバタ音。それだけならまだよかったが、回転性のめまいにはさすがに観念。心療内科なるところに足を運んだ。
耳鳴りというのは、薬を飲んだからすぐに治るというものでもなく、さらに言うと即効性のある薬があるわけでもない。めまいは間もなく止んだものの耳の方はからきしで、しばらく耳障りなバタバタ音とともに暮らすことを余儀なくされた。QOLダダ下がり。
2.クライエントの声が聴こえない
今思えば、すでに予約の入っていたクライエントに事情を話してカウンセリングをキャンセルすることもできた。良いパフォーマンスが見込めないことがわかっているなら、本来はクライエントの利益のためにキャンセルすべきだったかもしれない。しかし当時の私は、駆け出しならではの前のめりな実践欲が勝ってしまった。
「左耳はなんとか聴こえる。カウンセリングルームのドアを閉めた静寂の中なら、人の声は聴きとれるはず」
そう言い聞かせてカウンセリングに臨んだ。(福祉現場に多い生活場面面接と異なり、心理カウンセリングというのは決まった曜日や時間に、視覚や聴覚からの余計な刺激の少ないきわめて静かな空間でおこなう)
そんな淡い期待を抱いていたものの、数十秒で玉砕。右耳は、強風にはためく鯉のぼりのようなけたたましいバタバタ音とリズムをいや増し、憎らしいほどに鎮まる余地がないのであった。
3.お題、降臨
「困った。てんで耳が聴こえていないことを正直に明かすべきか」
逡巡しつつクライエントと目を合わせたそのとき。言葉がどこからともなく降りてきた。「この人は、〇〇について話をします」という内容の言葉が。
その瞬間、私は思わずクライエントの左耳のうしろあたりから頭頂部を経由し、右耳のうしろあたりまでの空間をぐるっとひとめぐり凝視した。だから、伝わり方としては、おそらく言葉という手ざわりのある形ではなかったのだと思う。そして確信した。
「お題、きた」
「よし、いく」
判断に費やした時間は、ものの三秒ほど。
相変わらずのバタバタ音を右耳に飼いつつ、クライエントの眉間、こめかみ、耳のうしろあたりに全集中。
その日のクライエントの語りは、耳から聴こえるというよりは「在る」ものを感じとるという感覚に近かった。聴こえるよりも直接的な感覚。カウンセリングの後半に入った頃、私は尋ねた。
「まだ、話していないことがあるのではないですか」
その後に語られたことこそが、冒頭に受け取った「お題」だった。原始領域から蘇りし『感度』が、鯉のぼりのはためきを凌駕した感動の瞬間。全身鳥肌が立っていたものの、カウンセリングはつつがなく終えた。クライエントを見送り、ひとりカウンセリングルームに戻って腰をおろした。
「一体、これまでの私は、何を使って聴いていたんだろう。そして今日は、何を使って聴いたんだろう」
「とにかく耳は使いものにならない。それ以外はすべて使った。目と鼻、口・・わかった。毛穴だ」
「人が語るのは、言葉じゃないんだ。本当に聴くべきことは、言葉という枠組の外にあるんだ」
頭の中で花火が20連発くらいで鳴りつづけているように感じた。夜のカウンセリングルームにひとり、微動だにできず。
4.毛穴は開かれた
その日のカウンセリングを思い返すと、『全身の毛穴で聴いた』という表現が一番しっくりくる。突発性難聴という危機によって、『言葉に踊らされず本質を聴く』という、聴き手としていちばんだいじな体験することができたというわけ。そのとき毛穴は開かれたのだ。
以来、相手の感情のうねりは、だいたい毛穴と眉間で感じ取っている気がする。いつもいつも、こういう澄み切った状態で聴くことができればいいが、そうもいかないのが肉体をもった人間のもどかしいところ。
澄んだ状態を作る近道は、自分を信頼し、相手を信頼すること。そして、毛穴を全開にして作為や意図のない状態で『在る』こと。日々、精進よ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。