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蔵出し映画レビュー『エルヴィス』
洋楽ロックを1950年代から現代まで一通り聴いているものなら一度は聴き、何かしらで生涯を知ることになるエルヴィス・プレスリー。そのプレスリーの伝記映画なんだけど、大半がマネージャーのトム・パーカーから見たプレスリーで、そこに『ムーラン・ルージュ』のバズ・ラーマンが独特なディフルメで手掛けた「新説・エルヴィス・プレスリー」を作り上げている。
大半がトム・パーカー視点のエルヴィス・プレスリーとなるので、起点もプレスリーのデビュー前後でなく、サン・レコード時代の末期の1955年夏あたりからの伝記になる。そこから大ヒット、燕尾服事件、兵役、映画進出など事実に沿って展開しながら燕尾服のくだりや60年代後半のテレビ特番での復活などトム・パーカーが関わった部分はトム・パーカー目線中心でのドラマとプレスリーの葛藤を描いている。
なので、クリーンなイメージに持っていこうとするトム・パーカーの思惑やテレビのプロデューサーやスポンサーなどの良識派らが良しとする方向性と世間が待ち望むエルヴィス・プレスリー像やプレスリー本人がやりたい音楽とのズレ、歪みがあり、そこを正確に描いたので表のエルヴィス・プレスリー史とは違ったアナザー・ストーリーのエルヴィス・プレスリーを見ることになる。
加えてバズ・ラーマンによるディフルメ演出はプレスリーの動き、それも股間の動きを異様なまでに強調し、それが事実であったとしてもやりすぎて変なものに仕上がっている。それと、プレスリーが黒人音楽をリスペクトをした部分や、B.B.キングとの邂逅も必要以上に強調し、代わりにジャムセッションをしていたジョニー・キャッシュやジェリー・リー・ルイスとの交流などを省いたりしたあたりも異様さがあり、捻くれた伝記映画仕様となっている。
加えて、トム・ハンクスをデブデブにし老けメイクで見せたのに対して、オースティン・バトラーが演じるプレスリーは後年、晩年も少し老けと太りを見せただけで、美化が際立ち、もはやファンタジー映画といって差し支えない。ある意味、バズ・ラーマンの演出なんだろうし、トム・パーカーにはそう映ったのかもしれないがやはり異様である。終盤に取ってつけたように実際の映像を出したおかげで、バズ・ラーマン演出の異様さが光りはするのでそこは悪くない。
ラストのふんわりとした有耶無耶な様子はトム・パーカー視点、バズ・ラーマン演出としては非常に残念、というかそれこそファンタジーだとしてもちゃんと描くべき部分だった。「裏エルヴィス・プレスリー史」としては辛うじてありだが、予想以上の珍品に仕上がっている。