見出し画像

『海へ出るつもりじゃなかったし』の話

 シャニマスが正月に更新したイベントコミュ『海へ出るつもりじゃなかったし』のネタバレ上等既読前提の感想です。イベだけじゃなくノクチルのカード・コミュもちょくちょく絡めます(あまり具体的な引用はしてないものの)。
 人と話したり感想を見たりする中で気づいたこともあったり感想を読む中で形成される言葉もあったりするので断言はしづらいのですが、全体として出来る限り自分が感じたことを自分の言葉で書いたつもりです。

チルアウト・ノクチル観

 本イベントのテーマ、というよりノクチルそのもののテーマは即ち『子供が大人になりゆくこと(≒社会へ参画するということ)』。子供が子供でいる美しさ、大人が後から振り返って肯定しても否定してもどこか汚されてしまう、そんな儚い価値は確かにあって、多くの人々が体験したであろうモラトリアムを体現するのがノクチルです。
 とりわけ浅倉さん樋口さんの2人は高校2年生、17歳の正月という高校から先のある程度将来の道筋を意識せざるを得ない時期。大人に近づいていく時期で進路を決めたり、大学受験のために勉強を始めたり、周りでそういう話がたまにされたりする、そんな17歳は「自分ってなんなんだろう」「どういう風に生きていくんだろう」みたいな自意識で自我が不安定になる時期であり、この二人はノクチルの「若さ」を大きく担っている(とはいえ他の2人も2人である種の若さがある)。みなさんも覚えがないですか、漠然とした"何か"を期待したり、斜に構えたり。

 浅倉さんは変わり映えのしない長い長い日常に飽いており、どこか遠い場所、ここではないどこか、運命、物語、色々な言い方をできるこれらを通して自分の色とは何なのかをぼんやりと知りたがっている子です(ぼんやりとというのが重要で、それの追い求め方・追い求めたがり方すらわからないから只々ぼんやりと変化を期待しているほかない)→「きっと夢は叶うよなんて 誰かが言ってたけど その夢はどこで僕を待ってるの」。浅倉さんは何にも染まらない透明な人に見えて、自分の色を探している。
 そのぼんやりとした期待に火をつけたのがかつて自分を導いてくれたプロデューサーとの"運命的"な再開で、彼を追いかける形で浅倉さんは分からないなりに自分とは何かを模索するようになっていく。そんな彼女を追いかけて他の3人もまた大人への変化の中に身を投じる(「僕の光で未来を照らせるように」)。というのが私の基本的なノクチル観。

・余談:樋口の若さ
 樋口さんは樋口さんで、また若い。ある種の純粋さを信じていて、それが言語化されるとき世界に表現されるときに失われてしまうものがあると思っている。そもそも個人の内面・主観とは完全には共有不可能なものであり、だからこそ個人だの主観だのが成り立つというのに、何かしらの表現によって他者と共有可能な形に落とし込めば何か失われてしまうのだから。
 表現とはすなわち対象化、自己を外在させるということで「これ以上ないくらい自分のことなのに自分じゃない自分」を産み出してしまう一種の欺瞞だと感じ取れるような繊細で誠実な感性の持ち主(ギンビロ)、それが樋口さん。そんな彼女が世界に対して取る姿勢は「全てが泡となる世界だから、沈黙だけがそれを守る」という消極的な自己防衛。最初から表現しなければ純粋な感情は汚されないし、あるいは自分自身が他人によって評価されることも避けられる(自分で表現したことへの評価というのはどうしようもなく自分のことだから、自分の限界を知ってしまうことになるかもしれないというWING編での恐怖に繋がってくる)。浅倉さんとは対照的に自分の色なんて知りたくない、何かに染まりたくない(のに染まっていってしまう)子。

海へ出るつもりじゃなかったし

 さて、『海へ出るつもりじゃなかったし』の話。
 まず滅茶苦茶大雑把に言ってしまうと、アンチ「アイマス」として在ったノクチルが、「アイマス」の中に吸収されることなく、しかしそれでいてその中に着地点を見つけたといった感じ。これまでの人生で一番弁証法というものを実感しているかもしれない。今後人に弁証法を説明する機会があったらノクチルで説明しようかな。しません。

 物語そのものを説明しようとすると、公式のシナリオ説明文がこれ以上なく表現していて言うことがなくなってしまう。

画像1

 とはいえある程度は解きほぐそう。ノクチルの4人はアイドルでいる理由はない。4人でいるのが当たり前で、アイドル活動もその当たり前の延長線上でしかなかった。好きとも嫌いともあえて表現しない、一緒でいることがただ当たり前な(カラカラカラ)幼馴染の緩く、それゆえに切れなかった連帯というのは大人になりつつある中で、切れずともどこかで自然と消えてしまう危うさがあって、4人も正月の間にそれぞれがそれぞれに感じ取っている。しかしアイドルとなり、今回のイベントでプロデューサーに目標を設定されることで自分たちだけの手段と目的(他所から借りたのですが、しっくりくる表現です)を手に入れた彼女らは、それによって「相変わらず」のまま変わりつつある。どこかでいつの間にか消えてしまわない、たとえ消えても失われない、そんな「相変わらず」に。
 芸能界、社会という海に出た彼女たちは風を集めて、タッキング(風上に向かってジグザグと進む航法)でゆっくりと進んでいく(「進んで戻って、ちょい進む」)。

小余談
 失われないためという観点で行くと、関係性に「ノクチル」と名前が与えられたのも重要。名前が与えられることで輪郭が明確になり、語りの対象となり得る。何かを語り、規定することは名付けすることと根で深くつながっている。

いっぱい生きろ


 このイベントではしばしば「社会に参画するということはどういうことか」が暗に明に示されました。善村記者の伝手で今回の仕事が貰えたということはもちろん、楽屋での交流の様子(ここを嫌味っぽさを露骨に出さずに描写するのが滅茶苦茶上手い。同じ業界の人とこうやって挨拶する感じ社会あるあるじゃないですか?)、あるいは小糸さんが勉強していた社会契約論もその比喩となっているわけです。

 交友が、人と人のつながりが仕事を作り生活を作る。社会ってどうしようもなくそういうもので、子供の頃に思っていたよりずっと、人は機械的に生きていない。そんな世界に知らず知らずのうちに参画しながらも、ただそこに迎合するのではなく、自分たちだけの手段と目的を手に入れた(社会性と自分たちで在ることの肯定、それでも他人と繋がっていることは往々にしてあって、それはとても素敵なことだねという話はアジェンダや明るい部屋でも示されている)。これは若さにとって大切なことで、かなり大きな意味で「やり方」を知った。人生とか、仕事とか、社会とか、それだけじゃなく全部含めた生きるための「やり方」。

 本気でやる、勝負に出るってことを否定する若さを否定したくない。されるべきでもない。停滞も一つの美しさである。でも(「でも」という逆接すら烏滸がましいのだけど)本気で何かをやったときに感じる生の実感は間違いなく存在していて、そこに至るにはどこかで理不尽が介在せざるを得なくて(自分はこれを肯定するのも気が引けるけど認めもする)、そういう理不尽さって誰がどう出力するのか。すべきなのかすべきでないのか。今回それを担ったのは間違いなくシャニPで、とてもとても難しいことなのだけど、彼はやりきった。今回のように結果的にノクチルが自分たちで作戦を考えて試行錯誤するくらい能動的な形として出来たのがとても嬉しかった。これはとても危うい綱渡りだから、美しいとか素晴らしいとかよりむしろ嬉しいという表現がしっくりくる。
 危うさを以ってシャニPに結果論だなんだと責める気は毛頭なくて、彼に心からの賞賛を送ります。というのも、彼は彼女たちの美しさを知っていて、同時に「いっぱい生きる」ことも感じてほしいという明確な目的を持って慎重に言動を選んだからです。目的、手段、結果を一致させた並々ならぬ誠実さが眩しいぜ、シャニP。

 細かいところですがこれに関連して、騎馬戦中の樋口さんが「……もう、なんでもありか」と言う台詞があるのですが、自分はここに痛く感動しました。

スクリーンショット (528)


 これは上で述べた「やり方」を知ったというのと重なってくる感動。社会を意識し始めつつも変わらない日常の中で「どうせ」と可能性を狭める自己防衛をするのは多分若人あるあるだと思うし、これはまあ樋口さん自身のスタイルでもあるのですが、人生って思ったより幅の広い選択肢があり得ていて、何より「いっぱい生きる」ことってすなわち「なんでもあり」であることだと思うんです。それで「もう、なんでもありか」の感覚がここでいう「やり方」と繋がっているような気がして、樋口さんにとってこの先長い人生の宝物となるようなそんな体感が得られたんだな…と感動しました。

細かい感想や余談

・ランサムのことや宝島のことはもういいよね…。なんならランサムはイベント更新以前から語られたし。

・仮に天塵の「エモ」の再生産をして、変わらない美しさを描いていたとしても、ウーンとは思いつつもなんだかんだまあまあ喜んで食べてはいたと思う。でもそうじゃなくてちゃんと変化を描こうとするのがありがたかった(そもそもインタビューで高山Pが「アイドルになってどう変わるのかを描きたい」と言っているので、そらそう)。今初期16人の最初期のコミュを見ると今とはまるで違って積み重ねの重みを感じるんだけど、それをちゃんとノクチルでも作ろうとしている。

・『いつだって僕らは』『あの花のように』の歌詞の威力がイベントを重ねるごとに増している。イベントを見た皆さん、歌詞に注意してもう一度聴いてみてください。

・それぞれの父母が大体示されたのよかったねぇ~。樋口さん親に対してバチバチの反抗期とかではないとか樋口母めっちゃ普通とかコーヒー淹れてるじゃんとか雛菜父母予想通り愛情深い感じとか小糸母が悪質すぎるように描かれるのではなくあくまで普通であるとか「迷惑かけないように」という普通さに小糸さんの人格形成が絡んでいることが伺えるとか浅倉母もイメージ通りすぎというか絶対美人で良い大人だろとか

・とまあ感想を上げだしたらキリがないんだけどこれだけは言わせてくれ

スクリーンショット (531)

この下り「父親」すぎ~~~~~!!!

・騎馬戦でジャンプしてバラバラになったということ、そしてその後風を呼んで帆走準備したことはノクチルの「相変わらず」の分解と再構築を示すのかな。

・雛菜さんがオウムに覚えさせようとしていた「シャケ」は川で生まれ海に出る魚であり、ノクチルの隠喩となっている。最終的に生まれた川に戻ってくる生態に、今後ノクチルが解散してもまた集まれることを示しているのかもしれないと妄想。

・「汽水域」は言うまでもなく海との境目、変わりゆくノクチルのあり様の比喩。

・「ミジンコ」はただのディティールと捉えてもいいんだけど、タイトルにまでなっている上に「ココア・説教・ミジンコ」と話の中での登場順的にもあべこべで意味ありげ。ミジンコが水流の生じない淡水に生きる微生物であることを鑑みるにこれもノクチルの隠喩か?ミジンコの英名Daphniaがギリシア神話のダフネー(月桂樹という意味)に由来することからも追えるかなとか考えたけど流石に考えすぎの領域になる。深読みしすぎには気を付けよう。意味を求めすぎるのに気を付けよう。

・ルソーの社会契約論、これも人に言われてピンときた。社会が作られるにつれ完全に自由なままでは不都合が生じるため、合意の上で契約して国を作り互いの自由を保障するのだという思想(でいいよね?)で、これもまた社会に参画するということの話。
 加えて更に更に余談としてルソーの『人間不平等起源論』見てみると


神が汝に何ものとなることを命じたか、また汝が人間の世界でいかなる位置を占めているかを学ぶがよい。

というペルシウスの引用があったり、自然人の記述として


それは自己を改善する能力である。(中略)この特異なほとんど無制限な能力があらゆる不幸の源泉であり、平穏で無辜な日々が過ぎてゆくはずのあの原初的な状態から、時の経過とともに人間を引き出すものがこの能力であり

見聞きするものは常に同じ順序であり、常に同じ周期である。(中略)以下に近い将来であろうと、およそ未来の観念などはない


といったノクチル的イベント的にドキッとする文章がある。これだけ長くなったけど、あくまで自分の知識と結びついておお~となっただけの話であり、話の構造的には単純な比喩なので余談。

 ちょっと長くなってしまった上、話題がふらふらと行き来する雑文をここまで読んでくださりありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?