「つくってあそぶ」を取り戻す


鷲田清和 「生きながらえる術」なりわひとまかなひを読んでのまとめと感想、やりたいことです。

生きることが働くことになってる。
・・・仕事と余暇の分断

仕事とは、生き延びるためにシステムの中で代替可能な労働者として働くこと。ってみんな思ってる。

自分らしさとか、好きを仕事にできる人なんてのはほんの一握りのラッキーパーソン達で、ほとんどの人は受け身で働くし、仕方ないと思っている。

仕事以外の活動は全て余暇となっていて、それにはお金がかかるものだと思っている。だから、遊ぶために働くのが当たり前。

(あ、ちょっと難しそうって思っても閉じないで〜)

しかし少し昔は、防災の用意や祭りのような地域の活動も、仕事と余暇の間とかだった。けれどそういう関わり方をする人も減ってる。まちのことは、行政に税金を払って、サービスとして提供してもらう感覚の人も多いと思う。


使うものは、買うものだと思ってる。
・・消費者と生産者の分断

必要なものとは「買うもの」であり、つくることを顔の見えないどこかの誰かに託している。
これが当たり前でずーっと社会が動いているような気もする世代なわたし。けれど、例えば家具が壊れた時、隣のおっちゃんは日曜大工で家具の修繕ができるから頼る、とか。近所のおばちゃんが魚を上手にさばけるから頼るとか、そういう技や術を交換し合うことが少し昔まで当たり前の景色だったという。
その交換を通じて、人々が複数のコミュニティに所属していた。まぁ、関わり合いが多かったってことよね。

生きててしあわせって、どんな時?

人の役に立つことはうれしい。困ったときに「それなら○○さんができるよ」と知り合いが知り合いを読んでくる。そういう営みが、「ここにいていいんだ」「生きがいがある」という状態につながっていた。

ここで話を戻そう。

突然だが、あなたは仕事で疲れています。想像してくださいね。大人数の前でプレゼンがあった。なんだかうまくいかなかった。そして、あなたは甘いものが大好き。さて、仕事から帰ったらどうする?

買うよね。アイスとか。ちょっといいやつ。
この、「仕事で疲れたからアイスを食べてお金を使う」サイクルはエスカレートすると、仕事のストレスを解消するために働くことになる。

学生の時夜勤やってたけど、ちょっといいご飯を一人で食べて、働いて、タクシー乗って帰る生活していた。今思うと、正常じゃない気がする。給料の半分を働くストレスの解消のために使うとか。

ここで考えたいのが、そんなにストレスを感じて働かなくても、術や技の交換を日常に取り入れれば、もう少し快適に、かつ、新しい関わりが広がっていくのは?という事。

例えば甘いものを「つくる」
それがトクイになれば、甘いもの好きな友達を集めて、ふるまえる。
別に無料じゃなくてよくて、材料費分はもらえば、一人でつくるより多分安く上がる。

それも、ふるまうと「おつかれ~~」「おいし~~~」とか言ってくれる人がいて、アイス食べながら話したらちょっとすっきりして、とはいえみんながんばってるんよな~とかで明日も頑張ろうになる。

けど、私は怠けものでめんどくさがりなので、一人で黙々と作るのが苦手、というか続かないのよね。。

なので、そういう「つくってあそぼ」がしたくなる場所をつくりたい。みんなでワクワクさんになってみる。元気な時は作って遊べばいいし、疲れたときはコミュニティの中で提供してもらって遊べばいい。そういうラフな交換ができたら楽しそうだ。

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