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カルマ〜Donda〜

「Donda」に影響を受けた私のカルマ観

1年前、私は受験生であった。
高校1・2年で遊び呆けていたにもかかわらず、早稲田大学を志望していたため、3年生になってそのツケが回ってきた。
当然、それは覚悟の上であった。しかし、学歴で見返してやりたいという強い気持ちや、その他さまざまな理由(時間があれば別の記事で書く)から、どうしても早稲田に合格したかった。

高校2年生のときの不祥事により、「これ以上、堕ちてはあるまい」と強いプレッシャーを感じていた。今でも、その感覚は続いている。

さらに、地方の一般受験生であったため、受験には多くの費用がかかった。
親の負担や期待、近所の人々やクラスメートの目線など、四方八方からの圧力にさらされていた。

加えて、私は卑屈になり、文句を言っても仕方がないヒエラルキーへの怒りや、他人への妬みを募らせるばかりであった。

その鬱憤とプレッシャーのおかげで、死に物狂いで勉強することができたとはいえ、辛いものは辛い。
文字通り、吐くほど勉強した。結果として、努力は実らなかったが……。

「努力は絶対に報われる」という曖昧な言葉を支えに頑張ってきたが、成果主義や拝金主義のような数字ばかりを追い求めていたため、そんな言葉はもはや効力を失っていた。


そんなときに、このアルバムと出会った。

それまで、Yeをまともに聴いたことはなかった。
しかし、このアルバムは当時の私にとって処方箋のように効いた。

私はそれまで、目に見えるもの、現実ばかりを直視していた。
いや、直視しなければならないという強迫観念すら抱いていた。

その私にとって、スピリチュアルや信仰といった「Donda」の根底にあるテーマは、本来なら忌避すべきものであったはずだ。

しかし、このアルバムから私は「神」を学んだ。

資本社会を生き抜く上で、成果や数字ばかりを追い続けていては身を滅ぼす。
だからこそ、ときには運命や神のようなものを感じ、信じてみることも必要なのではないか。


例えば、こう考えてみる。

今も続いている友人との出会いに、明確な理由があるのか?
自分がその家庭に生まれた理由は何なのか?
恋人との出会いには、どんな必然性があったのか?

それを追求すると、一つの結論にたどり着く。

今も続いている縁には、実は何の理由もない。

私はこれを「運命」だと感じている。
大げさではなく、理由がないからこそ、そうなっているのだ。

例えば、私が奨学金なしで大学へ進学できたこと。
静岡県の片田舎で、こうして生きていること。
両親が私をこの世に生み落としたこと。

これを俗に言う「親ガチャ」と呼ぶこともできるが、それもまた運命的なものと言うほかない。


「なるようになる」

「Come to Life」の歌詞にもあるように、神は私たちを見ている。
そして、チャンスを確実に与えてくれている。

怒りや鬱憤を溜め、自分を正当化するために他者を傷つけたところで、何が生まれるのか。
何も生まれない。むしろ、経済的観点から見ても、総じて負債である。

だからこそ、そうした感情は「赦す」というレベルにまで落とし込み、
自らの現在の状況に感謝すべきなのだ。

他人と比べても何も生まれない。
今を生きていることを、日本で生きていることを、感謝するべきなのだ。
これは運命であり、チャンスなのだから。

今あるヒエラルキーから抜け出すチャンスは、すでに存分に与えられている。
それを、酒、喫煙、セックスなど、人間的自律を失わせる本能的な欲求に溺れることで台無しにするのは、あまりにも惜しい。

だからこそ、私は頑張る。
今、私は本当にまだまだ頑張れている。

同級生に金持ちの息子がいる。

なぜあいつは金持ちなのか?

そう考えたときに、「社長の息子だから」と妬むのではなく、こう考える。

彼の親、さらにその前の世代が、起業なり経営なりの努力を積み重ねてきたからこそ、今の富があるのだ。

ならば、私たちも。
こうしてチャンスを与えられているのならば、
我が家の子供の子供の子供まで豊かに暮らせるよう、努力を続けるべきではないか。

頑張る理由がある。
頑張らない理由がない。

少し熱くなってしまい、文が乱れているかもしれない。
しかし、それもChatGPTに校正させたので、正しくなっていることを祈る。


まとめ
得たもの
「根気と努力」「親へのロイヤリティ」「信仰」

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