錨としての物語ー丹宗あや『曖昧に笑うのはもうやめた』評
『曖昧に笑うのはもうやめた』では、子どもの虐待がひとつのテーマとして取り上げられています。この物語が上梓された頃、虐待にまつわるニュースは盛んに報道されていました。それから少し経った今、その話題は激減し、ともすれば過去の出来事として忘れられようともしています。もちろん、その間にショーのような刑の執行があり、豪雨による甚大な災害があり、それに時間を費やされるのは、当然のことだと思います。ただ、それでそのまま流してしまってよいものでしょうか。そのことを踏まえ、この物語の批評を行なっていきたいと思います。
この物語には、主人公と対照的な三人組が登場します。主人公の娘であるあおいと同じクラスに通う子どもたちの母親たちです。彼女たちの口にしている話題は、ニュースやワイドショーで報道されている虐待死事件についてです。亡くなった子どもに同情し、行政の不手際を非難する。日本の至るところで交わされた会話の情景と想像されます。そんな彼らが佐伯さん、という人物を引き合いに出します。同じ園に通うハヤト君の母親である彼女は、「このところ姿を見ない」。主人公はハヤト君を最後に見かけた時、顔一面に引っかき傷があったことを知っています。同じようにそのことを知っている三人組は、ハヤト君が虐待されていることを想像しています。
主人公は、この三人組の言動に矛盾を感じているようです。報道された事件には関心を寄せ、同情もする。しかし身近な出来事については、対応を怠り、揶揄までする。その点、主人公は彼らとは違い、踏み込んだ行動を取ります。ハヤト君のことを園長に相談するのです。しかし具体的な対策はなされないまま終わります。
ここで示された通り、主人公は三人組に比べ、行動力があります。そのことで彼女もまた、三人組の揶揄の対象となってしまいます。「1か月前SNSで、近所の中学で行われた性教育への応援活動をシェアしたから」三人組に「性教育委員長」とあだ名されます。彼女自身は、しかし「正直、虐待をあれほど非難する人達が性教育に無関心な理由がわからない」と、ここでも三人組に対して強い不信感を抱くのです。
三人組は、虐待死の報道が沈静化されている今、どのような話題で話をしているでしょうか。災害の怖さや感動を誘うエピソードには共感していても、虐待の話はまれにしか話題にのぼらず、まして水道の民営化や参議院の議員数増などについてはおそらく議論されてはいないでしょう(タイで救出された9人については話題にしているような気がします。これらはすべて勝手な想像ですが)。
少し話は変わりますが、この批評会のプレ段階で「物語を届ける」ということが議題にあがりました。どうすれば、物語を多くの人に届けることができるか、それを議論しました。多くのコメントが寄せられていますので、そちらにもぜひ、目を通していただきたいです。
本題に戻ります。『曖昧に笑うのはもうやめた』を届けるべき人は誰でしょうか。真っ先に思い浮かんだのは、物語に登場する三人組です。でも、なんだか届くような気がしません。それはいったいなぜでしょうか。ニュースをネタに、ただおしゃべりするのが楽しい人たちだから、としか思えないからでしょうか。そのことは、三人組の背景が描き出されると分かってくるかもしれません。
それで、私が希望するのは、この物語をそれぞれの登場人物が主人公になるオムニバス形式の群像劇とすることです(もうすでに構想されているかもしれません)。
そうすることで、それぞれの人物の意外な側面があぶり出されるでしょう。主人公との対比がより鮮明になるように思います。
前述したように、主人公は身近な小さな声を拾うことに長けています。そのことによって、三人組とは距離を置くことになりますが、その時、示した表情は、彼女の決意として描かれます。それがこの物語の主題となり、また、佐伯さんに手を差し伸べることができる可能性も描かれます。
その出来事に至るまでに、主人公と娘であるあおいとのやり取りの描写が、とても効果的に挿入されています。主人公は、虐待は決して他人事ではないことを自分の行動で示してしまいます。感情が理性に追いつかないこともあること。そのことに自覚的になった時、人は行動を起こすことができるようになるのかもしれません。どうしてできないの? から、もしかしたら、何か事情があるかもしれない、に変化します。
また、この物語は "姿を現さないこと" で問題を提起している部分もあります。それは大人の男性の存在です。一種の緩衝材としては描かれますが、子育てへの介入が感じられません。これも主人公の夫のエピソードがあると、より鮮明な問題として浮き彫りになるような気がします。
『曖昧に笑うのはもうやめた』を軸として、社会問題を提起する連作が期待できます。もっとこのお話の、登場人物たちの背景を知りたいと思いました。一過性の話題として流されてしまわないために、錨として、つなぎとめる物語になることを望んでいます。