ひとりアメリカ縦断紀①(ボストン編)
はじめに
1年以上前に訪れたアメリカの情景は社会人になった今でも自分の中で折にふれて思い出すことがある。蒸気船に乗りながらミシシッピ川を下ったこと、唯一の非黒人乗客としてニューオーリンズまで8時間のバスに揺られたこと、ニューヨークのAirbnbで女優の家に泊まったこと、誰もいない冬のウォールデン池を訪れたこと、D.C.からアトランタまで寝台特急に飛び乗ったこと、慶應ニューヨーク学院に巽先生を尋ねに行ったこと。
タイトルの通り私は卒業旅行としてアメリカ東海岸をひとりで縦断してきた。もともと卒業旅行は5年の学生生活を締め括る集大成のような壮大なものにしたかったこと、そして曲がりなりにも米文学を専攻した者としてアメリカに行きたいと考えていた。そこでアメリカをルート66で横断する計画を立てていたのだが、アメリカ最大のレンタカー会社Herzがなかなか首を縦に振らない。というのも弱冠23歳の若造に、州を跨いだ、ましてやアメリカ横断のための車を正規料金で貸したがらないのだ。
ならば!横がダメなら今度はアメリカを縦に旅行するしかない、という至極単純な発想で今回の旅行案に行きあたった。英米文学専攻の方ならお分かりだと思うが、中でもボストンやニューヨーク、ワシントンDC含む東海岸は文学的にも非常に豊穣な大地だ。定期的な戦争がこの国にリズムを刻み込んできたわけだが、そのアメリカを規定した独立戦争、南北戦争が繰り広げられた大地こそ、ほかでもないこの東海岸。ならば日本語の情報も数少ない中で、「車なし、金なし、英語力なし」の逆境跳ね除け、アメリカ東海岸を縦断してみようではないか!と思い立ったわけだ。
サンフランシスコに取り残される?
2023年2月14日、満を辞して卒論を書き上げ、大学4年まで週5でキャンパスに通い続けた僕は留年の心配もなく意気揚々とアメリカへと出発した。しかし乗り継ぎで訪れたサンフランシスコの空が青く澄み渡るのと対照的に、僕の気持ちはブルーになっていった。というのも成田を出たUA838便が遅延を重ね、サンフランシスコ空港に着いた時点で、次のボストン便が出るわずか1時間前。ホームアローン2よろしく空港のコンコースを全力疾走するも間に合わなかったのだ。「アメリカに着いたらまずデカいバーガーにかぶり付いて♪」と期待に胸を膨らませていた僕の高揚した気持ちは徐々に失せ、滑走路から次々と飛び行く飛行機をベンチでひとり眺めていた。
しかしこの辺りはさすがは飛行機通勤が当たり前の国アメリカ、手際良く2時間後に出る次の便に振り替えられることになった。ボストンまでのフライトはおよそ6時間。時差を4つ飛び越えるため昼前に出ても、ボストンに着く頃には深夜近い。この辺りの感覚は日本に住んでる身からするとかなり直感に反するが、おかげでのちのちジョージア州からアラバマ州へと向かう際に痛い目に遭うことになった。
マサチューセッツ州の夜景
雲間から覗かれるマサチューセッツ州の夜景は宝石が散らばったように美しかった。飛行機はアメリカの大地低くを飛び、夜11時ごろには滑るようにしてボストン空港へと着陸した。今回泊まる場所はボストンではあるものの、予算とステイ先の兼ね合いを考えて隣町ケンブリッジに取ることにした。ディケンズが『ボストンの知的洗練と優越性の多くは、確かに、この都市から三、四マイルの範囲内にあるケンブリッジの大学の目に見えない影響によるものである』と書いたが、ケンブリッジ市はボストンからチャールズ川を挟んである学術都市である。ちなみにディケンズの頃にはマサチューセッツ工科大学はないので、もちろん上記の大学はハーバード大学を指す。
ボストンはアメリカの中でもトップクラスに非常に治安の良い町とのことだった。日本人が重大事件に巻き込まれたことはここ10年ないというので、その事実に甘え安かった夜到着便を予約したが、深夜11時のボストンはだいぶ不気味であった。駅のホームは非常に暗く、照明も心許ない。日本では空いてる車両を好んで探すが、アメリカではむしろ人がたくさん乗ってる車両を探す。いつも思うがアメリカのパブリックサービスは先進国とは思えない汚さである。
深夜12時近くにケンブリッジのCentral Stationに到着する。地下鉄とバスを乗り継ぎ1時間ほどだったが、なぜかここまで運賃はタダである。駅の構造上、ボストン空港からだと市内中心部まで改札を通らず来れるのだが、果たしてこれが旅行者に対する優しさなのか、単にアメリカらしい大雑把さからくるのかは謎である。
とまれ駅から15分ほど歩いてステイ先に到着した。Airbnbで予約したため住宅街の中にあるウッドハウス調の民家のドアベルを鳴らすと、中からおばさんが出てきて「You must be Yutaro(あなたはユータローに違いないわね)」と言って手を差し伸べてきた。「こんな夜遅くまで起こしていて申し訳ありません」と言うと、彼女は笑顔で「私にとってこんな時間は遅くともなんともないのよ」と答えてくれた。なおこの言葉が社交辞令ではないことは、翌日の夜以降すぐ分かった。
Airbnbという形式上、自分はその家庭の一部屋だけを割り当てられていた。深夜だったため家は静かで、果たしてこの家には誰が住んでいるのかも判然としなかったが、生活に必需なバスルームととキッチンの使い方だけを教えてもらいその晩は早々に寝た。
ちなみに自室の隣の部屋にはエイミーという香港人女性が1ヶ月の長期滞在をしているとのことだった。寝室以外は共同なので洗面所もシャワーもトイレも譲り合いながらということになる。この点苦痛といえば苦痛だが、観光が終わってから家に帰ってもそれ以上に会話相手がいるというのは無機質なホテルのベッドで横たわってるよりかは精神衛生上非常に良いことだった。人との交流もあれば、ひとり旅でも少しは彩りが加わるというわけだ。そのほかAirbnbであればホテル以下の料金で、リビングや庭など合わせればスイート以上の広さが手に入り、異文化交流も楽しむことができる。現地の観光情報や住民しか知らないようなおすすめスポットも教えてくれるため、一人旅にはうってつけの宿泊方法だ。
歩いてボストンを観光してみる
ボストンはアメリカを代表する都市でありながら、街自体はコンパクトで歩ける規模感だ。アメリカでも最初期に入植が進んだ場所であり、独立に重要な役割を果たした場所であるため歴史的な史跡が集積しているが、それらもフリーダムトレイルという街中の道路に敷かれている赤い線を歩くだけでだいたい回れてしまう。これはバックパッカーのような旅行者にとっても無駄がなく非常に効率が良い。
まずアメリカ着いて初日は「でかいハンバーガーにかぶりつこう!」ということで、ボストン市内にとりあえず向かってみた。ボストンコモンという街中心部にある公園で降りると、目の前に運良くバーガーキングがあったためとりあえずそこに入ってみた。
アメリカ来て最初の飯。デカさから考えると物価が高いとはいえ価格は妥当に思えた。
とりあえずそのフリーダムトレイルを歩いてみようということで、まずはマサチューセッツ州議事堂を訪れた。こちらはケネディが大統領になる前に州議員をやっていた頃からある建物だ。内装の独立戦争期の立派な絵画を見ると、これから訪れるであろうワシントンDCへの期待も高まってきた。その後は途中カフェなどにも立ち寄りながら、独立戦争の史跡や教会、集会場などを見て周り、最後はアメリカ最古の現役海軍戦艦、及びバンカーヒルというモニュメントに登って終わりだった。およそ4時間のルートだった。なおお気づきになった方かもいるかもしれないが、ボストン茶会事件だけはやや街の外れにあるため、フリーダムトレイルには含まれていない。ただこちらもティーポッドをボストン湾に投げ込んたりできるアクティビティがあるほか、本格的なイギリス英語による劇を楽しむことができるので必見だ。
劇形式で常に進む。ときどき観客に役が振ってくるためどきどきであった
文学の街コンコードへ
英米文学専攻の学生として外せない場所がこのマサチューセッツにはある。それはコンコードという街だ。ボストンから北東に27kmの場所にある小さな街だが、ここにはヘンリーデイビッドソローやエマソン、ナサニエル・ホーソーン、ルイーザ・メイ・オルコットなどアメリカを代表する作家たちが住んでいた、まさしく文学の街だ。世界史専攻ならアメリカ独立戦争が始まった場所としても有名かもしれない。
2月のコンコードは厳しいと聞かされていた。事前にソロー学会理事の佐藤光重先生にも相談したが、ブリザードがあるから危険ではないかとも聞かされていた。しかしながら今年のボストンは例年よりも暖冬であるということ、そしてちょうど強烈な寒波が来る前の穏やかな時期であったため、物は試しと鉄道を乗り継いで行ってみることにしたのだ。ちなみにその強烈な寒波は僕がワシントンDCにいるときにボストンを襲っていた。
コンコード駅は何もなかった。アメリカ独立戦争前夜にポールリビアが走った距離とたいして変わらないのでそう遠くないはずだが、ボストンとは打って変わって完全な田舎町だった。言わせてみればアメリカの古き良き田舎町という風情すら感じた。ウォールデン池のほとりでサンドイッチを食べれたら面白いと考えていたが、そのようなサンドイッチが買える店すら駅前にはなかった。駅を出て右手、佐藤先生に「ソローも歩いたんだからまぁ歩けるよ」と言われた道のりをひたすら歩く。歩道もないような道を40分ほど歩くため、雪が積もっていれば歩いて行くのはまず不可能であると思われた。なおこの道はそのままソローストリートと呼ばれる。
歩いて40分ほどなんとかウォールデン池にたどり着いてみると、そこには驚くべき光景が広がっていた。なんと2月だというのに泳いでる人がいるのだ!話を聞いてみると、温暖化の影響もあり、悲しいかな2月にウォールデン池が凍ることはもう滅多にないのだというのだった。浜には海のような細かい砂が広がり、押し寄せる波の音を聞いていると確かに服を脱いで泳いでみたい気もしてきた。
池の周りを取り囲むようにして遊歩道が通っており、奥にはソローが実際に住んでいた古屋跡がある。写真から分かるように池の大きさは日本ならLakeでも妥当だろうが、国土が広大なアメリカではこれくらいでもPondというのだろうか。途中、道中にある漆を触ると大変なことになるという佐藤先生から聞いたエピソードを思い出す。
そこからは街の中心部まで戻るのにUberを使った。コンコードでは鉄道駅は街の外れにあり、発展している中心部はもっと北の方にあった。ブラジル系移民1世だというUberの運転手に話を聞くと、コンコードは庶民にはとても手を出せない高級住宅街になってるのだという。フリーメーソンのロッジが街中心部に大きく構えられていたのも印象的だった。運転手に何故こんな時期にウォールデンに行ったのか理由を聞かれたので、英米文学専攻だったと伝えると、コロニアルインという街中のモーテルで昼飯を食べるといいと教えてくれた。ナサニエルホーソーンが滞在した記録が今も残ってるという。
その他にもコンコードには若草物語の舞台となった家や、エマソンの家、スリーピーホーロウ共同墓地や、ホーソーンが最も幸せな時期を過ごしたオーチャードハウスなどがあり、18世紀から大して変わってないと思われる風景も多く残されてるので、ぜひボストンとセットで訪れてほしい。(セイラムやプリマスもボストンからは近い)
ハーバードとMITという大学
翌日はケンブリッジにあるハーバード大学とMITを訪れてみることにした。これだけ狭い市内に、世界に冠たる大学が二つもあるというのもアメリカの国力を象徴しているように思われたが、このケンブリッジというイギリスの学術都市から丸パクリしたネーミングもアメリカらしい単純さだと思った。なおボストン市内を走るレッドラインは両大学を結ぶため、電車内では両者の大学の学生と思しき人が本を読んでいる姿を見かける。
特にハーバード駅で降りる学生の自信家ぷりは傍目にも見えたように思われた。考えてみれば東大の学部生が13000人、慶應の学部生が28000人のところ、全米規模でありながらハーバードは学部生6700人、MITは学部生4500人ほどしかいないのだから、どれだけの少数精鋭ぶりかと思われた。ハーバードはアメリカ最古の大学、そして最高峰の大学として世界的な盛名を馳せてるのは言うまでもないが、マサチューセッツ工科大学は後発の大学でありながら街のど真ん中に広大な敷地を確保している(およそ三田キャンパスの16倍)。工学部設置としては実は日本より遅れをとったアメリカの大学システムであったが、MITは工学系以外のことも色々とやっているそうで、学生間で「え、アノ人まだ生きてたの!?ランキング1位」の言語学者ノーム・チョムスキーも在籍している。
荘厳で歴史ある建物にTechnologyと刻まれているのが印象的だ。
果たしてアメリカは新興国という割にはボストンの建物など総じて日本のものよりもいかめしく年季を感じる。空襲のような戦禍を経験していないということもあるだろうが、考えてみればアメリカは現行憲法のもとで、日本国憲法の3倍近い年月をかけてこの国家を運営してきたのだった。ハーバードがアメリカ建国以前、江戸時代初期のよりあるという事実を見れば街全体が古いのは当たり前であった。
なおホストに「自分の街にこんな世界に冠たる大学群と研究施設があることを誇りに感じますか?」と聞いてみると「別に。だって私の人生には関係ないもの。ただ大量の税金を市に落としてくれてるからおかげで very richでありがたい」とのことだった。
かつて「代表なくして課税なし」で蜂起したこの街は大学への莫大な課税収入で成り立っているのだ。
(ニューヨークへ続く)
*途中立ち寄った慶應ニューヨーク訪問記についてはこちら