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【小説】月見酒【ついなちゃん二次創作】

それは、いやに満月が眩しい夜の事だった。

日本の何処か。
まるで時代に取り残されたような、古い佇まいの郷。いらかで葺かれた木造家屋が点々と立ち並ぶ。
そんな郷の一角に、漆喰造りの蔵を数棟抱える大きな酒屋が一軒。看板には墨痕鮮やかに【百鶴ひゃくつる】の文字。どうやらこの酒屋の屋号らしい。

その、【百鶴】の門を、ひとりの女性が潜った。
袴が翠色をした巫女装束に身を包んだ、清楚で凛とした顔つきの乙女で、腰まで伸ばした髪の毛は袴と同じく翠色、足には足袋をつけぽっくり下駄を履いている。左手には白木の鞘に収められた刀。その瞳は青天の空を切り抜いて貼りつけたように輝いていた。

「御免下さい」

翠の髪の乙女…神木【すずの木】の精霊・鈴乃すずのは静かにいざないを乞う言葉を発した。
明治維新頃の平民のような和装・散切り頭の老人が出迎える。
「おや、神楽平かぐらだいらの姐さんじゃないか。この隠れ里に足を運ばれるのは何年振りかね。噂ではヒトの姿を借りられない程の深傷を負ったと聞いていたが、良くなったのかい」
「お陰様で」
「そうか、そいつは目出度いな。もう神楽平のある森もだいぶ様子が変わったろう。どんな按配だね」
楠木神社くすのきじんじゃと言う神社の所有地になっています。現代いまも緑豊かな土地ですよ」
鈴乃は嫣然と微笑み、袂に手を遣ると何か取り出した。硝子ガラス製の大振りな瓶だ。その瓶の中には、金色に輝く上等な蜂蜜が充たされていた。
「こちらと、清酒一升を取り替えて貰っても宜しいかしら」
「ほう!これは上物じゃないか。隠れ里では甘いものは貴重品だよ、助かる。…少し待って居てくれないか。徳利はあんたの快気祝いにウチの店のを差し上げよう」
「ありがとうございます」

百鶴の主人が、大樽から清酒を丁寧に徳利に移し替える様子を、鈴乃はかすかな笑みと共に眺めていた。夜の静寂しじまに樽から注がれる酒の、コポコポと流れるかすかな音だけが響く。
頃合いを見て主人は樽に栓をし、徳利に栓をし、細い麻縄で徳利の首を縛って片手で下げられるようにした。それを大事に抱えて鈴乃の傍まで至る。
「帰路、落とさないように気をつけなよ。姐さん」
「ありがとうございます。その内また蜂蜜をお持ちしますね」

****************

「うーん、弱ったな」

同じ頃、維新前に神楽平と呼ばれていた一帯…今は楠木神社の敷地…に建つ社務所で、和服の上から割烹着を纏った、黒髪に眼鏡の可憐な乙女が台所の一角を見つめながら思案に暮れていた。

彼女の名は楠木くすのきマヤ。
楠木神社の当代宮司・楠木大篆くすのき だいてんのひとり娘で、同神社の巫女も務める才女だ。

マヤの視線の先には、幾つかの酒肴が並んでいた。
栃尾揚げを焼いて刻みネギをまぶしたもの。
きんぴらごぼう。
アジの開きを炙ったもの。
裂きイカの甘露煮。
いずれも父・大篆の晩酌用にマヤが用意したものだ。

ところが、その大篆が急用で家を空ける事になった。楠木神社がある山の麓で狐憑きつねつきの騒ぎがあった為だ。普段なら憑かれた者を押さえつけて楠木神社まで護送の上で狐落としをするのだが、今回は憑かれた者が激しく抵抗して護送が不可能と判断された為、大篆自ら里に降りる運びになったのだった。

「今宵の晩酌は中止だ。酒肴は済まないがマヤが食べてくれないか」

父・大篆の台詞がマヤの脳裏に蘇る。

「…こんなに沢山の酒肴、ひとりじゃ食べ切れないよ…お母様はお父様のお供で一緒に里まで降りちゃったし…折角張り切って色々作ったのになぁ」

とんとん

不意に雨戸を叩く音がしたので、マヤは縁側から外に出た。
そこには鈴乃が立っていた。真新しい一升徳利を片手に。

「鈴乃ちゃん?」
マヤが一瞬だけ訝しげな顔つきになった。
鈴乃は精霊なので、外見年齢を自在にコントロール出来る。そして普段は神域を守護する為に霊力の大半を費やす必要から、14歳位の童女の姿で霊力の消費を押さえているのだと言う。そんな鈴乃が、マヤの年頃に近い大人の姿になるなど滅多に無い事だ。
マヤの心情を察したのか、鈴乃はくすくすと短く笑った。
「たまには私も、天真爛漫な童女の外見なりから解き放たれたい時があるのよ」
そんな台詞の後で、鈴乃の視線は台所に注がれる。
「あら、御誂え向きね。酒肴の類いがたくさん」
「御誂え向きって…そう言えば鈴乃ちゃん。その徳利はどうしたの?」
「ナイショ」
意味ありげに片目を閉じてから、鈴乃は縁側に腰を降ろした。

「今宵は素敵な月夜よ。私の晩酌につき合ってくれないかしら」
「何だか良く判らないけど…折角鈴乃ちゃんが誘ってくれるなら。…ちょっと待っててね」
マヤは台所に取って返し、酒肴の数々と大振りなぐい呑みを二つ、大きなお盆に乗せて縁側に戻って来た。羽織っていた割烹着を脱ぎ、行儀良く膝を曲げ坐る。鈴乃が差し出した一升徳利を受け取ると、普段父の晩酌でそうするように、片口にその中身を移す。うっすら金色を帯びた上等な清酒だ。
片口からぐい呑みに清酒を注ぐと、清酒の心地良い薫りが一段と強くなるようにマヤは思った。鈴乃がぐい呑みの片方を手に取り、空を見上げた。
「…良い月ね」
「ホントね」
鈴乃に釣られて月を見上げる、マヤの表情もまた穏やかだった。

「神域の守護、いつもお疲れ様。乾杯」
「乾杯」

チィン

軽くぶつけたぐい呑みの音が、まるで鈴の音のように束の間響いて消えた。

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