【ひとり読書会】日本印刷文化史 印刷博物館
図書館を徹底して活用しているという話というか、自分のまわりに使える図書館はたくさんあって、それを、オープンデータを活用したサービス、カーリルで束ねて活用しているという話を、先日書いた。
ついでに言うと、図書館にない本は、丸善ジュンク堂のアプリで検索すれば、たいていのものはヒットするし、棚の位置も明示してくれるので、大抵の本は手に取ることができる。
本の情報を得るのは、土曜日の朝が濃密。
日経と朝日の書評欄に紹介されていて、おっと思った本は、すぐにカーリルで検索して、在庫があれば、即予約。
なければ、ジュンク堂のhontoアプリで検索して、お昼のテイクアウトついでにジュンク堂まで足を伸ばして、手にとって見る。
丸善本店なんかは、各紙の書評欄で紹介された本を、まとめて置いていてくれていた。
ジュンク堂広島店も、一時期、そういう風にしてくれていたような気がするのだが、いつのまにかなくなってしまった。
広島にない本とかが、紹介されることが多いのか、それとも人で不足なのか、、、
そんな感じで、本に関しては、ほとんどがスマホの中で探すのが完結してしまう。
コロナ前は、上京したときなど、丸善本店一日中、日本橋店も半日近く。腹が減れば、日本橋高島屋のディンタイフォンで腹ごしらえして、また戻る。ときには、丸善のカフェでハヤシライスとワッフルという楽しみもあった。
銀座界隈に軸足を移す前は、新宿あたりに投宿することが多かったのだが、そのころも、紀伊国屋の本店、高島屋の横にあった南店などにこもって、東京でないと買えない、掘り出し物の本を探して、ダンボール箱いっぱいの書籍を、宅急便で送るのが楽しみだった。
あとは、神保町の三省堂。
その頃は、大型書店にこもって、一日すごすのが東京に行く楽しみの一つだった。
そういう楽しみ方をしていたときは、棚から棚に移動して、思いもよらない掘り出し物にめぐりあうこともあった。
絶版と思っていた本が、ポンと棚に並べておいてあったり、、、
それが、アプリや図書館の予約サービスが充実してくると、棚の回遊がなくなり、ピンポイントで目的の本を目指して、用事がすんでしまう。
なので、いつも通っている、お気に入りの図書館があるのだが、小さいくせに、選書がいいので、予約本を受け取りに行った時に、ビジネスと歴史の棚(といっても、ほんの一区画なのだが)を、覗くようにしている。
あと、新規入荷の棚。
これは、入り口近くにあって、最近仕入れた本がディスプレイされている。
これが、以外に、絶対自分では検索したり、棚を探したり、しないような本がならんでいる。
で、2割くらいの確率であたりの本に巡り会えるのだ。
前置きが、非常に長くなったが、今回紹介する本も、そんな新規入荷棚に置いてあった一冊。
印刷の歴史を、ディープに掘り下げた本。
渋い&超おすすめ!!
元々は、経典の印刷からはじまった、我が国の印刷文化も、江戸時代に一気にエンタメに花開く。
読み進めると、日本史の教科書で出てきた名前が沢山でてくる。
江戸時代に名をはせるということは、その人の業績は、その当時はYoutubeがないので、紙に印刷するしかない。
解体新書の杉田玄白や、農業全書の宮崎安貞などの偉業も、印刷なくしては広まらなかった。
そして、その印刷技術の重要性に目を付けていたのが、徳川家康。
まあ、本人というより、まわりのブレーンが認識していたのだろうけど、あとは、諸藩の有力大名も、印刷技術を活用。
そうしたこともあり、江戸期に大きく発展。
以下、備忘録。
P276
整版と活版
漢字文化圏は、活版の活字の準備が大変なので、整版が主流であった
幕末、電胎法という銅のメッキ技術を活字作成に応用する技術が生まれる。
P280
戦後、スーパーマーケットの台頭により、個別包装の需要。これによりパッケージ印刷が発展
P286
電子回路も印刷技術。
以外に古い技術。1936年、宮田喜之助による、メタリコン法の特許。いわゆるステンシル。
広まったのは、1941年、アイスラーの写真整版法。
アイスラーの特許による印刷配線の方法は印刷では写真製版とよばれる方法である。写真製版は、金属板の上に感光性の樹脂を塗膜し、写真を撮って樹脂を硬化させた上で、腐食する方法で、日本では明治期にはすでに印刷に導入されている。この方法を応用して回路部分にのみ金属を残し配線として利用したのが印刷配線(プリント配線)である。従来の技術を応用した方法であれば生産設備も転用できる。また、金属腐食は印刷にとって得意な分野である。
まさに、経路依存性により市場を押さえたケースだ!
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