甦るフランク・ロイド・ライト(13)Willey邸
マルコム・ウィレイ邸 Malcolm Willey House 1934
・ウィレイ邸の位置
今回は、第二黄金期が始まる契機となった、
マルコム・ウィレイ邸についてご説明をしよう。
こちらも前回のストラー邸同様、私に重要な転換をもたらした作品じゃ。
私の作品集では、ウィレイ邸のすぐ後に竣工した落水荘ばかりに注目が集まり、紹介自体されないこともよくある。ただ落水荘より、ウィレイ邸の方が、その後の作品への影響は大きい。
いわゆる、隠れた名作じゃ。
この住宅で、何が転換したか。
以前のプレリーハウス期では、内部空間の連続と箱の解体を追求していた。
ウィレイ邸以後、内部空間の連続は、外部へ発散し、解体すべき箱は、大地と覆いとスクリーンに置き換わり、姿を消した。
この住宅を、私はのちに、ユーソニアンハウスUsonian Houseと名付けた。
ユーソニアンとは、アメリカ合衆国民を指す。
ユーソニアンハウスは「合衆国民のための住宅」を意味する。
プレリーハウスが草原から立ち上がる上流階級向けの住宅だったのに対して、ユーソニアンハウスは、多様な地形に対応する万民のための住宅ということになる。
・世界恐慌による客層の変革
ウィレイ邸で、私のデザインは大きく変化した。変化の原因を遡ると、1929年の世界恐慌になる。ニューヨークの株価が大暴落した。
この恐慌のため、今までは上流階級向けの邸宅を設計していたが、その需要がストップした。
私は客層設定を見直す必要があった。中流階級向けの住宅も開発する必要が生じた。
しかしこの変化が、私のデザインを好転させた。
上流階級向けとは、一見きらびやかだが、意味もなく保守的で古びた慣習を伴っていた。
私は、空間や素材に、常に本来の意義を問い直し、新しく成長し続けることを求める。
古びた慣習からの脱却を図るために、客層の幅を広げることは、後から振り返ると必要だった。
そして、ウィレイ邸の施主も、資産家ではなく、中流階級の大学職員であった。ウィレイ夫妻は、1932年に出版された私の自伝に共感し、芸術作品としての住宅を求めて私に設計を依頼してきた。
1933年、ウィリー邸の仕事が舞い込んだ時、私は67歳じゃった。かなりのじじいじゃ。普通の人間なら晴耕雨読の生活を送るだろう。
しかし、久しぶりに訪れた住宅設計の機会に、私は、20代の青年のように心躍った。
この時期、私は仕事もなく時間もあるので、芸術学校を設立してフェローシップ生を集っていた。(下写真)ウィレイ邸は、フェローシップの製図台に舞い込んだ初めての実施設計でもあった。
・ボツ案と実現案
ウィレイ邸には、scheme1(ボツ案)とscheme2(実現案)がある。
ボツ案は旧スタイルのプレリーハウス、実現案は新らたなユーソニアンハウスと見立てることができる。今回は、scheme1(ボツ案)とscheme2(実現案)を比較しながら説明を進める。
scheme1は、2階建で計画した。予算が合わず、即刻ボツになった。予算の倍以上の工事費になってしまった。景気が良い時だったら、施主が借り入れすれば、そのまま工事はスタートできた。
しかしその時、世界は大恐慌だった。
急ぎ、scheme2の準備に取り掛かった。
我々は、芸術作品としてのローコスト住宅の実現を決意した。
・大地に舞い降りたリビング
大幅に予算をオーバーした際、効果的な減額は、規模縮小だ。地上・地下躯体両方の縮減が求められた。真っ先に、地下倉庫を中止し、平屋建てにした。基礎も最小限とし、土工事・躯体工事のコストを削った。最小限の構造体とすることが、ローコスト住宅の基本だ。骨から削らなければ、半分ものコストを削れない。
scheme2は、1階建てで計画した。その際、当初2階にあったリビングが、大地に舞い降りた。
庭とリビングが繋がり、敷地全体がリビングになるのを感じた。そして、内部空間は、美しい空と大地と連続した。
人間は、自然の美しさに魂が震えるとき、生きる意味(Living)を実感する。私のリビングは、まさにその魂の震えを体現する空間と成った。
なぜ大地とリビングがここまで連続できたのか。
私は、プレリーハウス時代の腰壁(上図)を撤廃した。scheme1でも腰壁はあったが、壁がない方が工事費は下がる。そもそもこの壁は、アメリカの開拓時代の名残であり、今日には不要だ。
そして私は、日本で外部と内部が連続する縁側や土間というスペースに出逢っていた。
ウィレイ邸では、ローコスト化のため、腰壁を撤廃し、リビングは大地と連続体となれたのだ。
ローコスト化とは、本来の目的に立ち戻り、合理化する作業だ。物事の本質をすくい上げる作業と読み替えることができる。
私の提唱する単純性とはまさにこのことである。
自然には、無駄なものなどなく、実に合理的な造形で満ち溢れている。わたしの単純性という概念は、世のミニマムや抽象性とは、違うものだ。
建築家にとって減額はつらい。もっと良くなるビジョンを持ちながら、簡素化する。身が削がれる感覚をもち、なんなら施主に腹が立つ。
しかし、矢印は己に向けなければならない。まだ合理化できることがないか、建築の隅々まで見通さなければならない。そして、その作業により、建築の本来の目的を再発見する。
私は、ウィレイ邸の減額化を考えながら、住宅の本質に向かって突き進んだ。
・動線のコンパクト化による空間の流動化
平面計画も、scheme1と2で大きく異なる。
私は、中流階級の人々の生活ために、キッチン周りの動線をコンパクトにした。
上流階級の家庭は、基本的に家政婦を雇っている。そのため、キッチンとダイニングの間に給仕室(Pantry)をいつも設けていた。scheme1では、キッチン→パントリー→ダイニング→リビングを直列に並べていた。まだ私は、上流階級の慣習に囚われていた。
しかし、マルコムさんの妻ナンシーさんは、基本的にワンオペだということを知った。
キッチンからリビングが視覚的につながり、動線も短ければ短い方がいい。そうでないと、キッチンにいながらリビングの様子はわからないし、移動距離が長いと疲弊してしまう。動線の短縮は、建物規模を縮減し、ローコスト化にも繋がる。
scheme2では、キッチンをガラス張りかつ一部オープンキッチンとし、リビングに隣接させた。ダイニングは圧縮し、リビングの傍らに配した。
この時、キッチン・ダイニング・リビングが一体となった。家全体がリビングであるという、ワンルームというコンセプトが誕生した。
そして、部分(機能)と全体(空間)が統合され、渦のような空間の流れが生まれた。
・リビングの空間性質の明確化
ローコスト化を追求する中で、無駄な慣習的部分をそぎ落とし、リビングの空間性質が明確化された。大地の連続性と、空間の流動性だ。これらの性質が家全体に連続し、統合できれば、この住宅は芸術作品と成ると私は確信した。
空間性質が明確になったため、内・外部の接続部のデザインも刷新した。
プレリー時代の内外の境界のデザインから、完全に脱却することを成功した。
大地の連続性は、レンガの床が担う。
その床は、テラスからリビングへ、そして内壁にまで連続する。これにより、大地の流れが、家の隅々にまで行き渡る。この流れは、リビングで新たに生まれた空間の流動性と呼応する。
内部と外部のつなぎ目は曖昧な方が、空間はより連続する。流れが弱まることがない。
そこで庇とサンルームで中間領域を与えた。
テラスのレンガ目地をリビングの一部まで引き込んだ。カーテンの位置も開口部から少し離した位置に設定した。
・ウィレイ邸における現代性
ワンルームや内外の境界操作についての建築家の言説は、未だによく建築誌で見られる。
当たり前のように、住宅設計の奥義として、ポジティブに皆に受け入れられている。
その発端は、このウィレイ邸にある。
ある意味、この住宅に、現代性はあると言える。ただもう90年前である。いい加減、飽きた。
皆、常に変化し、成長しよう。
空間の定義が曖昧では、空間の統合も連続する操作は意味をなさない。時代に漂い進化しない。
まず自らが見据える空間をしっかり定義しよう。その定義なくして、次なる成長する空間が、生み出されることはない。
そして、現代を標榜する空間を感じとれるのは、現代に適応した身体をもつ君たちしかいない。
常に自然の美しさに魂を震わせて、感知する身体を鍛えれば、おのずと自らの空間は、認知できるようになるものじゃ。
・次回に向けて
ウィレイ邸で、ローコスト住宅のコツは掴んだ。リビングと大地との連続と、内部空間の流動だ。
さらなるローコスト化にむけて、ウィレイ邸のアイディアはそもままで、構法の規格化を進めた。
Robert D. Lusk houseで構想を進め、Herbert Jacobs Houseで実現した。
よく第二黄金期は、落水荘に始まり、ユーソニアンハウスは、Herbert Jacobs HouseがNo.1と言われるし、私もそう説明したことがある。
間違いではないが、過程を辿ると、ウィレイ邸の存在が必要不可欠だ。
ユーソニアンハウスの萌芽は、確実にウィレイ邸のscheme2の検討案にあるのじゃ。