見出し画像

津久井やまゆり園で起きた事件を通して表出した「第二の刃」を社会はいつまで振りかざすのか?

私は、2016年7月26日未明に神奈川県立津久井やまゆり園(以下、津久井やまゆり園)で事件が起きた時から、この施設の入所者の皆さんの日常を取り戻すために、そこにいる職員たちを支援したいと考え、さまざまな試みをしつつ時を待ち、先方の目に触れ、お声掛けいただくまで、待っているスタンスを持ちました。

運よく、先方に当法人(特定非営利活動法人サポートひろがり)の存在を知っていただくことになり、2017年度末に先方からのご依頼でセミナーをし、2018年度は、意思決定支援を進める職員へのアドバイザーとして職員に関わり、2019年度からは現場に入り、現在も職員たちと一緒に、より良い支援を追求するためのお手伝いを続けています。

最初に申しあげておきますが、私自身が、どこのコンサルに行ったとしても、私が想う主人公は、そこにいる利用者の皆さんであり、そのために職員たちに苦言を申しあげることもありますし、もちろん、現状から抜け出て、より良い支援を作ろうと、相手の力量に合わせて応援していくこともします。それは、どこの施設・法人も変わりがありません。

そして、津久井やまゆり園が何の欠点もなく、完ぺきな施設だとも思っていません。

そのことを踏まえつつ、書いて行こうと思います。

津久井やまゆり園は被害者である

2019年12月に黒岩知事の問題ある発言があり、津久井やまゆり園の職員だけではなく、入所者やご家族の皆さんの不安と怒りと嘆きの毎日を目の当たりにしていました。
(その後、神奈川県議会が反対し、黒岩知事の構想は変更になりました)

そして、それと時を重ね、2020年1月8日から始まった、事件に関する裁判に際しても、植松聖死刑囚の言動によって動くメディアを通した様々な人たちの発言に、心揺るがされる施設側の支えになりたいと、寄り添ってきたつもりです。

それは、津久井やまゆり園の皆さんは、事件の被害者だからです。

どんな施設とか、過去がどうだとか、これからがどうだとか、そのあたりを抜きにして、事件の現場にされた被害者であることは、皆さんご存じのとおりです。

でも、そこで起きた事件だから、そんな事件になった背景は、津久井やまゆり園に何かあると思いたい人もいらっしゃるようです。
想定外の事件が起きたわけですから、理由を求めたいと思うのでしょうけど、そう考えられてしまうことは、非常に残念に思います。

もし、あなたが、何らかの事件の被害を受けた時に、あなたが悪かった理由があるはずと批判され、追いかけ回されるとしたら、受け入れられますか?
と考えると、加害者を生んだのは、津久井やまゆり園のせいだと言われ続けることに違和感を感じませんか?

そして、障害がある人を施設に入れた親が悪いという人さえもいます。自分で見ることができないのか?と心無い言葉を投げつける人もいます。
それも間違った解釈です。

さて、この事件は、津久井やまゆり園だったから起きた事件ではありません。津久井やまゆり園だったから、植松聖死刑囚の本質を見抜けなかったことでも、入所者の人たちを守り切れなかったことでもありません。

植松聖死刑囚が、どこの施設に就職したとしても、彼は同じように考え行動を起こしたことでしょう。そして、私たちが、そこの職員だったとしても、事前に彼の考え方を変えることできたかどうかは、誰もわからないことです。

津久井やまゆり園だけが特別な条件の施設ではないのです。
社会の様々な意見がメディアを通して流れるたびに、津久井やまゆり園の関係者の皆さんは、気持ちが揺らいでいるのではないかと察していますし、被害者であるにもかかわらず、加害者のように扱われることに、その都度、支えていく気持ちを持ち続けたいと思うのです。

今、皆さんに伝えたいこと

さて、今年も、7月26日がやってきます。

今まで、別ブログ(最後に掲載)で、毎年のように、この事件の被害者である津久井やまゆり園の入所者の皆さんや職員・ご家族・そしてご遺族の皆さんを支えている立場として、ブログを書き続けてきたつもりですが、そのスタンスを持ちつつ、今回、全く別の視点で、書いてみようと思っています。

先ほども書きましたように、黒岩知事の発言があり、裁判があり、加害者と決めつけたような方向の記事等を目の当たりにしますし、その情報を読んだ人が、またそれに同調するような状況になっているのではないかと思うからです。

植松聖死刑囚が放った言葉から津久井やまゆり園を想像していることが皆さんにとっての考え方のルートだと思いますが、そういう考え方の組み立てで本当によいのか?と立ち止まっていただきたいと思うのです。

そして、簡単に言ってしまえば、
自分の意見を話すとき、自分の言葉で話そうよということです。

また、植松聖死刑囚が話した言葉をそのままうのみにせず、自分事として想像力を持って、解釈していこうよということです。

さらに言うなら、いろいろなことを津久井やまゆり園側が真実を話していない中で、植松聖死刑囚の言葉だけで、津久井やまゆり園はこんな施設なんだと決めつけないでいこうよということです。

植松聖死刑囚の表現を改めて解釈してみる

もちろん、私は彼とは会っていませんし、裁判の傍聴もできず、接見もしていませんので、残念ながら、彼が言ったとされる言葉をメディアを通して拾い集めるしかありません。

ですから、裁判の記事を多く書かれているお二人の記事から引用させていただきます。複数の方が書かれていたり、他の報道でも出てくる言葉なので、たぶん、彼の言った言葉だろうと思って、考える材料にいたします。
篠田さん、雨宮さん、ありがとうございます。

Gさんという重度・重複障害者がいました。彼の日中はオムツとヘッドギアを付けて車椅子にしばり固定されており、食事はドロドロの流動食を食べさせると同時に多量の服薬を行います。
便が詰まる為に腹から腸をだしストマパウチを付けています。お腹から糞を垂れ流すと言えば分かりやすいかもしれません。眠る時は服を脱がないようにつなぎを着て、指を動かさないようにミトンでしばります。
もちろんGさんは言葉を話すことができませんし、目は動き回りなにをみているのか分かりません。
働き始めた当初は「障害者はかわいい」「やりがいがある」と言っていたものの、事件前年からしきりに「障害者はかわいそう」「食事もドロドロ」「車椅子に縛りつけられている」と言うようになり、それが突然「殺す」に飛躍した、(後略)

お二人の文章の中に出てくる、「食事がドロドロ」「車いすに縛り付けられてる」「多量の服薬」「糞を垂れ流す」「ミトンで縛る」などのことは、植松聖死刑囚から見て、彼が表現した言葉であるということです。

それを解釈するのは私たちです。
彼がした事件のことを非難しているのであれば、彼の言葉をうのみにする危険を感じつつ、解釈してほしいと思うのです。

彼が言っていることは、本当かな?と疑うことをしていないメディアが多くを占めています。そういうメディアの記事にもまた、読み手側が踊らされ、印象を植え付けられている危険があるのではないでしょうか?

この言葉を聞いただけで、「それなら、その障害者の人は、いない方が良いのではないか?」と考える人もいるのです。残念なことではありますが。

ですが、特に障害者支援をしている人やメディアの人は、そこから読み取る力を持ってほしいと思うのです。

例えば、「多量の服薬」の「多量」とは、どれくらいの量なの?というのは、植松聖死刑囚の感覚での話になります。薬は医者からの処方で必要な量が出ているはずですが、その人の病気や障害によっては、錠数が増えることもあります。このような、あいまいな言葉の意味は、人によって感覚が違います。

例えば、「ちょっと待つ」という時に、「何分待つのか?」が人によって違うのと一緒です。

ですから、植松聖死刑囚の言う「多量」という言葉を、自分のイメージの「多量」と同じと思い込まないようにし、多量という部分だけに視点を置くのではなく、障害が重い人とか、体調が思わしくない人なのかもしれないという方向に視点を置きたいところです。事情を知らないのにもかかわらず、「多量」=「薬漬け」=「虐待」という印象になる危険やご本人の苦しみをご理解いただけてないと考えます。

「食事もドロドロ」という表現も、私であれば、ペースト食なのかな?と思いますが、そういう食事形態があることを知らない人が聞けば、「え?何?そんなもの、おいしくないでしょ!」となることもあるでしょう。
そういう食事でなければ、栄養が摂取できない人もいますし、多くの栄養士たちは食べやすさを工夫しています。
それくらい、障害がある人や咀嚼に困難がある人の食事については、あまり知られていないのではないでしょうか?

「車いすに縛り付けられて」「ミトンで縛る」という表現も、本当はどういう状態だったのでしょう?
もし、「縛る」が本当なら、身体拘束であり、それ以外の方法があったのであれば、虐待の疑いにもなりますが、「縛り付ける」という状態も様々なイメージになると思いますし、「縛る」ということは尋常じゃないと考える人も多いのではないかと思います。

今、Gさんに対して、なぜそういう支援をしているか?が、津久井やまゆり園側から説明されていない中で、この植松聖死刑囚が言ったことから想像し、「車いすに縛り付けられて」「ミトンで縛る」→「身体拘束」→「虐待疑い」→「虐待」という表現がどんどんエスカレートして、津久井やまゆり園では虐待があったというように話を飛躍させ、決めつけた表現をメディア上で書いている人もいます。

身体拘束という時には、ご本人の障害状況や車いすの形状や職員体制の状況もあります。また、正当な理由として、医者の指示があったかもしれませんので、この言葉だけではわかりえないことですから、施設が間違っていると想像しすぎるのはいかがなものかと思いますし、彼の言葉から津久井やまゆり園の支援をひどいものだからこんな事件が起きたと結びつけるものではないのです。

もう一度、ご自身で、Gさんという人の障害の重さを別な言葉で想像してみてほしいのです。

植松聖死刑囚が言った言葉には彼の感情が入っていますが、Gさんの状況を感情なしで書き換えてみたいと思います。

「食事がどろどろ」→→→「ペースト食を提供している」
「車いすに縛り付けられてる」→→→「体を車いすに固定している」
「多量の服薬」→→→「症状に合わせた量の服薬」
「糞を垂れ流す」→→→「ストーマパウチをつけている」
「ミトンで縛る」→→→「ミトンをつける」

これが、事実です。感情抜きの事実のみです。
そこから何を想像するかは私たちがすることなのです。たぶん、多くの人が、まるっきり違うGさんへの支援状況を思い浮かべたのではないでしょうか?

津久井やまゆり園の中に訪問したことがある人で「最重度でも軽いように見えた」という言葉を言っている人もいます。それは支援が行き届いている証拠とも言えます。もしくは、その人が知っている最重度の人とは障害の状況が違う可能性もあります。

強度行動障害の人でも、支援によっては、行動障害が激減する人がいます。ですから、他者からは、強度行動障害があるようには見えなくなります。でも、その人に合った支援がなくなれば、また強度行動障害が表出する可能性はあるのです。ですから、支援の内容は重要なことなのです。

私個人としては、Gさんという入所者の人は、最重度の障害があり、車いすに乗っていますが、体を自分で保持することが難しい人。腸にも何らかの病気があり、ストーマであり、パウチ(便をためるところ)をしています。
ご本人は、ご自身の病気の状況の理解ができにくい方で、そのパウチを取ってしまう可能性があるため、夜はミトンをしていたのかな?と想像をしてみました。もちろん、間違っているかもしれませんが。
ちなみに、企業などで働いている人の中にもパウチをしている人もいます。これは病気ゆえの医療的処置です。

それにしても、前述の篠田さんが書かれた文章のようなことを彼が話をしたとしたら、Gさんにとっては、非常に不愉快な表現だと思いますし、Gさんが言葉を持っていたなら、不愉快さをあらわにするのではないかと推測します。植松聖死刑囚は、利用者の皆さんが反論できないことも予測しているのだと思いますし、これは、精神的虐待になると思われます。

「目は動き回りなにをみているのか分かりません。」という表現があります。この言葉から、当時職員だった植松聖死刑囚には、支援者としての質に課題があったと見受けられます。
(この言葉は、自分自身のことを言っているので、そのまま受け止めます)

言葉がないので、どこを見ているのかはご本人からは言えないわけです。もちろん、言えたとしてもどこを見ているのかを職員に対して言う必要もありません。
でも、その人を知ろうとしたならば、どこを見ているのかな?と同じ目線になれば、目線の先を一緒に見ることはできます。
それに、最重度の障害がある人は、あっちこっちを見てはいけないのでしょうか?そんなこともありません。

植松聖死刑囚は、そこを感じようともしないで、Gさんのような言葉がない人を意思疎通ができない人と位置づけ、「心失者」と位置付けたのでしょうし、「(障害が重くて)不幸だ」と判断し、「(最重度障害者は)周りも不幸にする」と解釈し、彼なりの正義感をもって問題解決になると考え、事(事件)を起こしたのでしょう。

つまり、植松聖死刑囚は、重度の障害がある人にも、その人の人生の楽しみや暮らしがあるということに気づける職員ではなかったのです。だから、言葉を言い放っています。
そこには、支援者として人に接する時に、最低限必要な人権意識もないよう見受けられます。

植松聖死刑囚が言う、「食事がドロドロ」「車いすに縛り付けられてる」「多量の服薬」「糞を垂れ流す」「ミトンで縛る」などの言葉は、入所者の人に対して配慮もない言葉として言っています。

そういう状態で暮らしている最重度の障害がある人がいますし、命と向き合うご家族や職員たちがいるのです。

最重度の障害がある人がいることが、不幸を作ると言い放った植松聖死刑囚の言葉を読む人たちが、表面的なことしか感じずイメージして、津久井やまゆり園が悪く、そういう職場だったから彼が殺人をする人になってしまったというストーリーに結びつけてしまう人がいたということが、社会に起きている現象なのです。

もし、入所者の人たちを不幸だと思ったとしても、津久井やまゆり園の支援が悪く、そこを何とか改善し、入所者の人たちを今以上に幸せにしたいと思うのであれば、行動力がある彼ですから職員に意見を言うこともできたでしょう。

でも、彼は、職員に刃物を向けるのではなく、日本のためにと障害がある人側に刃物を向けました。

私が、津久井やまゆり園でなくても、植松聖死刑囚は、どこでも事件を起こしたのだろうと思えるのは、彼の言葉ではなく、行動を見てのことです。

この事件は対岸の火事ではありません。重度の障害がある人たちやそのご家族だけではなく、全国の私たち障害者支援者にも向けられた事件なのです。

人は自分の言葉の裏付けを強いものから得ようとする

今、様々な情報がインターネットなどを通じ、自由にとれるわけですから、このように、人は誰かが表現したものを自分の感覚で受け止め、その際に何の検証もせずに信じ切ってしまうのは、危険があると思っています。
とくに有名な人の発言や衝撃的に書いてある記事や多くの人が読んでいる記事には、真実だと思ってしまう傾向があるのです。

私は、自分が知っている事実と反すると思う記事は、今までもありました。ですから、何も考えずに、読んだ記事をそのまま受け取るのではなく、あなたご自身の解釈を入れてほしいと思います。そして、この事件や津久井やまゆり園への評価が、19人の人を殺害した彼の言葉をもとに、決めつけ、ご自分の考えをまとめるのは危険であると、もう一度考えていただきたいと思います。

植松聖死刑囚の言葉から想像して、津久井やまゆり園のことを批判する前に、事件を起こされた被害者なのだという観点に立って、そこで暮らす入所者の皆さんや事件後も続けて働いている職員たちのことを自分事として考えられるようお願いしたいと思います。

事件当日、夜勤をしていた職員も、自分が殺されるかもしれないという中で、植松聖死刑囚の言葉の意味を読み、機転を利かせて「みんなしゃべれます」と植松聖死刑囚に伝え続けました。入所者の皆さんの命を大切にしているから出た言葉だと思いますし、感謝してもしきれないほどです。聞いたところによりますと、この職員さんをはじめとして、多くの職員が、同法人で勤務を続けているのです。

さて、もちろん、施設の中で何があるかは、私もすべてを見ているわけではありません。
コンサルとして入っていますが、すべてを知っているわけでもありません。全く課題がない施設とも言いません。
ただ、社会からいろいろと非難されることが多くあっても屈せず、職員一人一人も大きな被害や心の傷を受けながら、仕事を辞めずに現場で利用者の皆さんの意思決定支援を中心とした関わりを、避難先である仮住まいで繰り広げているところに、職員たちの支援者としての質の高さを思います。

また、毎月コンサルをしている中で、どんな支援をしていったらよいかを一緒に考え、次に確認する時には、必ず進展していることにびっくりするのです。

なぜなら、一般的な施設の1ヶ月の中で支援が改善できない場合もある中、津久井やまゆり園は、意思決定支援や裁判やメディアへの対応などもあり、使い勝手の悪い仮住まいである中、それでも、前進を試み、改善をしているのは、どんな努力をしているのだろうと思えるのです。

このように書くと、また、この施設は改善しなければならないほどの施設なのか?と悪評をするべきではありません。もし、今以上に良い支援があるなら、改善していくのはどこの施設も当たり前のことです。

私も施設を経営していますが、改善の毎日だと言っても過言ではありません。施設というのはそうやって、より良い暮らしを提供できるように、利用者ご本人に確認をしながら職員が努力するものだと思いますし、そういった意味では、津久井やまゆり園は、現在進行形で良い方向に改善し続けている施設だということは断言できます。

だからこそ、植松聖死刑囚の言葉から想像してしまった津久井やまゆり園の印象を、この記事をお読みの一人一人の皆さんが、あなたの中でもう一度、考えていただきたいのです。

津久井やまゆり園側は、植松聖死刑囚の言葉に対して、それは間違いだとすべてに反論しておりません。でも、もし反論したとしても、そんなこと言ったって何か隠しているのだろう?などと、社会から今と変わらない扱いをされる可能性もあります。だから、状況説明は意味ない可能性もあるのではないかと考えます。

言葉を放ったものが正しいとされ、黙っているものが批判される世の中は、間違いだと気付いていただきたいのです。

入所施設は、どんな夜を送っているか、想像をしよう

最重度の障害がある人たちの入所施設では、どういう職員体制や夜間の支援はどういったものがあったのかを知っていかなければならないと思います。
そういう状況を知った上で、支援の質については、総合的に評価をするものですし、「ミトン」や「車いすに縛り付けられて」という言葉だけが独り歩きするものではないと考えます。

ちなみに、施設に入所やショートステイを希望すると、お断りをされる場合が多くあります。私のところにも、「暴れるなら退所してもらう」と施設側から言われたことで他の施設を探す方からの問い合わせが、入ることもあります。それが、日本の福祉の現状です。
強度行動障害や医療的ケアが必要な人ほど、断られる可能性は高くあります。そういう人たちが、県立施設である津久井やまゆり園に入ることになった場合もあります。

特に「うちの施設は、身体拘束をしていません」と言っている施設は、もともとそのような障害が重い人を受け入れていない可能性もあり、くらべることはできませんし、身体拘束をしている施設だけが悪い施設なのかは、その背景や障害の状況など総合的に判断するべきことです。

さて、事件当日の津久井やまゆり園について、厚生労働省資料を見ると、
入所者は149名。ショートステイは8名。合計157名。
入所者の障害程度区分は、
最重度の区分6が全体の78%(116名)
区分5が21%(31名)
区分4が1%(2名)
です。かなり最重度の人が多いですね。

また、下記写真は、神奈川県HPからお借りしました。
夜間の職員体制については、約20人を一人の職員で見ていたようです。

画像1

自分一人がそういう施設の夜勤をしていることをイメージしてみてください。

そして、夜勤というのはどんな仕事があるのでしょうか?
そこも想像をしてほしいと思います。

身体拘束は、一人の利用者に対して、正当な理由がない限り、してはいけないというスタンスですが、集団の中でその夜を安全を確保しつつ、全員が過ごすためには、一人の職員がどういう支援ができるのかと、考えるべきことです。

多くの人材を投入できれば良いですが、経営的にそういうわけにもいかないでしょうし、利用者の人が全員寝てくださるわけではありませんし、夜中もその人にあった個別の支援をしていくところです。

最重度の人の施設であれば、トイレ誘導やおむつ交換・体位交換や見回りなどしつつ、ショートステイの人の方が支援度は高くなるでしょうし、強度行動障害がある人や精神的な障害で職員が離れることができない人もいるでしょう。服薬や体調確認や記録類の記入などもあるでしょう。
その中で、いかに人権を重視した支援をしていくかは、どこの施設でも悩んでいるところだと思います。

20人の最重度の人を一人の職員が見ているわけです。
もちろん、私自身も身体拘束をなくせるのであればなくしたいと考えていますが、一人の職員だけではできないこともあるわけですし、たとえば、大暴れする人がいた時に他の入所者を守るために、居室施錠は、絶対にしてはならないのかと悩むのだろうと思うのです。

全国のより良き施設が悩んでいることであり、津久井やまゆり園だけの課題ではないのです。全国の職員さんから身体拘束に関する悩みも私のところには届いているところです。

「二つ目の刃」を向けたのは社会だ

あの日、津久井やまゆり園で事件が起き、植松聖死刑囚によって、多くの命が絶たれ、けがをした人もいました。

植松聖死刑囚は、様々な言葉を話していますが、彼の言葉を優先して、あなたが自分の意識の中に入れ込み、この事件を考える材料にするべきなのでしょうか?

まず、亡くなった19人の皆さんを想い、19人の皆さんが、言葉で自分の考えを話すチャンスがあったなら、どんなことを話してくださるのかを聞きたいと思いませんか?
24人のけがをされた皆さんも語られていないのです。

被害にあわれた皆さんのご家族が、本心で思われていることは裁判で明らかになったと思いますが、植松聖死刑囚が事件前に解釈していたことは同じだったかというと、そうだとは思えないほど、ご家族の皆さんの苦しさや悔しさを目の当たりにします。

ご家族や障害があるご本人が不幸だったのではなく、植松聖死刑囚が、刃物を向けたことで、不幸にしてしまったようにお見受けします。

そして、職員たちも、事件当日も事件後も入所者の人たちを守るのに必死だったと伺っています。でも、社会は、そんな必死で仕事をしている職員たちにも刃を向けました。
ですから、口を閉ざしたのだと考えます。

言葉がないということは、意見がないことではありません。
意見を言いたくても言えない状況にしたのは、社会です。

亡くなった方々のお名前が明らかにならなかったのも、社会の側に理由がありましたし、話さないことで、身を守ろうとしているかのようにも見えるのです。

施設側は被害者であるのに、植松聖死刑囚が事件を起こした要因が施設にあるとして、加害者のように扱い、第二の刃を振りかざしたのは社会なのです。

私が、最初に書いた点は3つの点です。

・自分の意見を話すとき、自分の言葉で話そうよ
・自分事として想像力を持って、解釈していこうよ
・津久井やまゆり園はこんな施設なんだと決めつけないでいこうよ

私たちは、想像力を持っています。
植松聖死刑囚の言葉の中から、自分の言葉を作るべきではないと思います。

たとえ、どんな施設だったとしても、被害者です。

たとえ、どんなに重度の障害があっても、命があり、今を生きていた人たちです。

たとえば、あなたの住む近くの入所施設があるのをご存じでしょうか?
施設は、見学させてもらうこともできます。
そこに、植松聖死刑囚が就職をしたら…と考えることもできますし、自分がこの集団の人たちにどんな支援ができるだろうか?身体拘束なしでできるだろうか?と考えることができるのです。

津久井やまゆり園の話をしてはならないのではなく、自分の中で言葉を選び、使っていくことをお願いしたいと思います。

また、メディアの人にもお願いをします。
事実を書きましょう。憶測で断言するべきではありません。
批判的な記事・衝撃的な書き方を趣とせず、書くなら堂々と自分たちが考える意見を出すべきです。

誰がこの事件の被害者なのか?と考えて、取材をしてください。
あれこれと膨らませることなく、被害者側の事実の取材をしていただきたいと考えます。

私も津久井やまゆり園の件では、何度も取材を受けていますが、最初に、ねじ曲げないで書いてほしいとお願いするところから始めています。
津久井やまゆり園側を悪者に仕立ておく方が楽なのだと思います。そして、記事として人目を引くのです。でも、それは間違いだと気付いてください。

どんな過去があろうと、また、そこがわからなくても、この事件の被害者であるということをもう一度考えるべきことです。

また、施設の内側のことは、全国の施設も取材してみてください。
福祉現場の現状と、それでも働く職員の働く意味を知る努力をしてください。

それら、真実を目の当たりにした際には、その施設を批判するのではなく、これが日本の障害者支援現場だと知ることですが、それらとこの事件とは切り離して考えることをお願いしたいと思います。

共生社会は、どこにあるのだろうか?

画像2

神奈川県は、共生社会の実現を進めています。

しかし、この事件を通し、第二の刃を被害者に向け続ける人たちがいることは、共生社会への遠さを感じます。

共生社会とは、障害がある人だけにやさしい社会ではなく、植松聖死刑囚もその中にいることと解釈している私です。
彼の行動を崇拝する人たちや、彼の言葉を印籠のように見せて津久井やまゆり園を批判する人たちとも、共に生きることになります。

つまり、共生社会を作るのは簡単なことではなく、覚悟がいることだと知っていただきたいと思います。覚悟を決め、植松聖死刑囚が、日本を救うためと称し、障害がある人たちに刃物を向けたのだ知り、その人も社会の中に含まれることを認めることになります。

もともとが共生社会ではなかったわけですから、様々な人との共存から始め、将来的に共生社会を作ろうと一人ひとりが考え、行動をしていくことだと考えています。

私であれば、私にとって納得しにくい言葉にも目を向け、同時に、津久井やまゆり園の関係者の皆さんの言葉も聞くことですし、双方の言葉の裏側にある背景や意味を知っていくことだと考えます。

あるご家族は、植松聖死刑囚を自分の手で殺してやりたいと話されていました。そういった意味では、死刑の判決は、ご家族の望む結果となったと思います。

でも、植松聖死刑囚を死刑にすることは、世の中で不要な人は、だれかの判断で命を絶つことができるということになります。すると、津久井やまゆり園での事件を起こした植松聖死刑囚の考え方が、正しいものとなってしまうのではないか?と私は解釈しています。

死刑にすることが、問題の解決なのではありません。

問題は、これからも社会の中にあります。
本当に、共に生きる社会を作るのであれば、もちろん、そこには、植松聖死刑囚のような人がいる社会の中で進めることだと覚悟を決めることです。

共に生きる社会とは、どこにあるのでしょうか?
それは、私の中であり、あなたの中に作っていくものです。
それが集まって社会となるのです。

誰かが作ってくれるものではないですし、植松聖死刑囚の刑が執行されれば生まれることでもありません。

自分に向き合うことです。
そして、人の考えもたくさん聞いていきましょう。
また、違う意見の人同士、話し合いができると良いですね。
それが、一人一人の、共生社会に対する役割なのです。

命を考える時間を持ちましょう。
ご自分の意見は、ご自分で生み出せるものだと考えましょう。
津久井やまゆり園を批判していても、何も生まれないことを知りましょう。

私自身は、目を閉じて、19人の皆さんからいただいた宿題を粛々と進めていきたいと思います。改めて、19名の皆さんのご冥福をお祈り申しあげます。

資料


私の記事への応援をありがとうございます。知的障害がある人のしあわせにつながるための資金とさせていただきます!