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毎日「違う季節」を生きるということ
日中だと人に見つかるので,日が沈んでから大学内の柿を収穫した。春が来れば,テニスコート横の山菜を摘みにいく。冬至には柚子饅頭,バレンタインにはハート柄の羊羹を作った。
それらを食べたあと,抹茶が一服出てくる。
私たちは,それも「茶道」と呼んでいた。
茶室の季節はちょっと変
その茶道同好会では毎週金曜日に,飲み会に行かずにお茶を飲む。
茶菓子を買うのは私の仕事だった。通常の茶道では季節を先取りして,翌月の行事のお菓子を食べることが多い。
しかしその同好会は,かなりオンタイムのお菓子を買っていた。
例えば7月7日が日曜日の場合,七夕のお菓子は7月5日(金)に食べる。絶対に7月12日(金)ではない。7日以降は,たとえ売っていても七夕のお菓子は選ばない。
たとえ同じ7月でも,5日の週と12日の週は別物。
なるほど毎週が違う季節なのだと,そのとき気づいた。季節は4つなんかではなく,二十四節気のような24個でもない。
1年が52週なら,この同好会には季節が52個ある!
突拍子もない発想と様々なきっかけが重なり,週に1回の同好会に加え,家でもお茶を点て始めた。
お茶をする度に季節を感じるのであれば,毎日お茶を点てれば,季節は365個になるのでは?と思ったのだ。
「季節は365個」?
あろうことか,その仮説は当たった。
当時は毎日和菓子を用意していたので,6月中に七夕モチーフのお菓子を複数買い集めた。そして7月1日から徐々に七夕シリーズを食べ始め,一番豪華なお菓子を7日に食べる。
つまり1日から7日までの日々がグラデーションになり,1日1日が違う季節に感じられた。
もちろん7月8日以降のお菓子は,七夕モードとは趣向が異なるものを用意する。
そうやって迎える季節は,暑くなると夏を感じるような受け身の季節感とは違って,自分から見つけ出しにいく能動的な季節感に思える。
それを具体的な行動で言うと,大学内の山菜を収穫しに行ったり,満月の日に障子と窓を開けて楽しんだりすることだったのかもしれない。
こうした行動に共通しているのは「いま在るものに気づく」ということ。
季節感を見つけ出せる人が博学で偉いのでもない。ただ「少し手足を動かせば気づけるものに気づく」ということ。
私の場合はお茶と和菓子と過ごしたことで,季節が365個あるように感じた。
少なくとも,季節が365個あるかのように毎日を生きたいと思った。
茶道教室とのギャップ
大学卒業と同時に同好会を離れてから,家でのお茶を続けながら茶道教室に通い始めた。
その教室では季節に合わせて,毎週違うお道具が揃えてある。一ヶ月後を先取りしたお菓子もきっちり出てくる。
しかしそこでは,「季節が4つ以上ある」とは思えなかった。
もちろん,茶室内で季節を先取りするのは全然いい。しかし個人的に思うのは,私は旧暦を生きているのではないということ。
6月に7月を味わって7月に8月を味わうより,7月7日を七夕と呼び,1日1日の季節を生きていたい。
同時進行で自宅でのお茶は個人的に続けて,毎日オンタイムのお菓子と設えでお茶を点て続けた。
週に1回の茶道教室より,週に7回の家でのお茶は大きい。
茶道具一式なんて揃っていない家で,気づけば好きなお菓子と器でお茶ばかりしていた。
本当に好きなものを求めて
こうして,茶道教室を離れた。
正確を期して言えば,私が好きなのは「茶道」ではなく「あの茶道同好会で経験したこと」だったからだ。
だからか「『茶道』が好きなんですね」と言われれば,今でも曖昧な返事をしてしまう。
私がひっそり続けてきたお茶は,「茶道」とは呼ばれないだろう。
でも,それでいい。
あの同好会の活動が自分にとっての「茶道」だったように,自分がお茶だと信じるものが「お茶」だと思う。
私は今でも,季節の食材とお茶を使ったご飯を作ったり,「あの茶道同好会で経験したこと」の延長を続けている。
それを「お茶」としか呼びようがないから呼んでいるだけで,呼び名がなんであれ,私の好きなことは変わらない。
あの同好会と家でのお茶を通して好きになったのは,1日1日の季節を,自分なりに生きようとすることだ。
それを忘れないようにと、今日も「お茶」をしている。
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