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季節を再解釈する、現代の七十二候

一年を72個に分け、それぞれに名前をつけたのが「七十二候(しちじゅうにこう)」。四季を24つに分けた「二十四節気」のそれぞれを、さらに3つに分けたもの。立春や大寒などで有名な二十四節気と比べると、七十二候はまだまだマイナーだ。

私はもともと「毎日お茶をしていれば季節は365個になる」といった謎仮説を元に、2014年1月から日々のお茶を写真に収め、結果としてお茶の仕事をしている。しかしお茶以外のものを撮ったほうが、季節感はストレートに伝わるはず。

お茶以外のものも撮りたいと考えていた2021年2月、七十二候の第一候である「東風解凍(はるかぜこおりをとく)」に合わせた写真をおもむろに撮ってアップし始めたのが最初で、72候全てを現代で体感してみた。

七十二候のアイデア出し

七十二候は具体的またはディティールが細かいものが多い。例えば「雷乃収声 (かみなりすなわちこえをおさむ)」という、雷が鳴りを潜める季節。鳴ってもない雷を撮るのは無理すぎるので、雷に見える形の茎を置いて、アケビが割れる様子を撮ってみる。アケビが湿ってて、予想以上に静かに割れた…

「水沢腹堅(さわみずこおりつめる)」という季節では、氷が分厚く凍ってるように見えるものを作りたかった。分厚い氷をイメージしたデカい錦玉羹など、今まで地球に無かったものを作ることも多々。こちらは土佐文旦とオレガノで味付け。

「綿柎開(わたのはなしべひらく)」という季節では、綿花に綿ではなく半生のメレンゲを詰めたり。いやこれ、綿花そのものを撮ればよかったのでは…?

「蟷螂生」(かまきりしょうず)という季節では、カマキリのヘアゴムと髪の毛で卵鞘を表現しようとした(なぜ?)。毛質が硬く、コテで髪を巻くも効果はなく、アイデアと技術力の敗北を感じることも…。

カマキリのゴム、控えめすぎる

七十二候はもともと中国で考案されたもので、日本にはいない動物なども登場する。
たとえば下の写真を撮った「土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)」という季節、中国の元ネタは「獺祭魚(たつうおをまつる)」、つまり「カワウソが岸に魚を並べているのは供物を並べて祀っているようだ」みたいな季節だとされている。

それを何重にも逆手にとり、この時期に獲れる高菜で巻いたおにぎり(めはり寿司)を並べた。もはやネタの原型が伝わらない…

そういったこじつけ、とんち、緩やかなギャグでしかないものも多々ある。写真がダサいとしたら、それはもうアイデア出しの時点で確定している。

ダサいものを撮ってしまった後は、寝ても覚めても「本当にあれをアップするのか…?」と自問自答し、結局被写体を全部変えて撮り直すことに。

↓たとえば「雪下出麦(ゆきわたりてむぎのびる)」という季節の写真のために河口湖まで行ったものの雪がなくて、やけくそで撮ったけどアップしたくないな〜と思ってたら、数日後に都内で雪が降った。捨てる神あれば拾う神あり。ちなみに写ってるお菓子は「麦茶を底にまぶした淡雪羹」。

天気は操れないので、自前で雨を降らせることもしばしば。下は「大雨時行 (たいうときどきふる)」という季節で、じょうろで唐辛子をビシャビシャにした。

「鷹乃学習(たかすなわちわざをならう)」という季節のために鷹の爪を育ててたのに、
間に合わなかったので別の季節で唐辛子を活用

大雨と対比させて、下の「霎時施(こさめときどきふる)」という季節では霧吹きを使用。地味に道具が違うのです…。

365日を72個で割るので、5〜6日おきに季節が切り替わる。その5日の間に間に合うようにアイデアを出し、被写体の調達、必要があれば調理、撮影、レタッチ、SNSへのアップを繰り返してきた。

↑「雉始雊(きじはじめてなく)」という季節のために、高知から雉肉を取り寄せてキジすき焼きにしたり。

「蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)」という季節のために、
富岡製糸場のある富岡名物、シルクを使った葛のお菓子を取り寄せたり。

コオロギの季節に合わせて昆虫食にも手を出した。下はトマトが毒々しさを増してるコオロギのリゾット。現代の七十二候として、今だから食べたいものを取り入れたかった。かつ、一度も食べたことのないものばかり。

嫌でも週間連載レベルの労力がかかるので、苦し紛れに雑なものをアップしたり、途中で更新を止めたりして妥協したくない。その気持ちで撮り続けた。(結果的に雑に見えるものも多いけど、撮影者の気持ちの問題です…)

撮り始めて一年が経った

何の算段もなく七十二候を撮り始めた日から一年の間に、写真の仕事を増やし、事実婚をし、パートナーを巻き込んで写真を撮ったり撮ってもらったり。

上下の写真は「蒙霧升降(ふかききりまとう)」の季節に、街中でミストを発生させてる機械のそばで撮ったもの。

これは私が撮った「サウナによくいる人」(夫です)

私が写っているのは全て夫に撮ってもらったもの。「牡丹華(ぼたんはなさく)」という季節なのに牡丹が手に入らず、芍薬で代用。立てば芍薬、座ってるけど芍薬…。

私が七十二候のアイデアを出す度、夫は「無理がある」「一候にそんなにお金かけるな」などと言い続けていた。ツッコミ役が家庭内にいたおかげで、七十二候シリーズは安心してボケ続けることができた。

この一年の間に、七十二候の写真を見てくださった方々のお声がけで歳時記の連載が始まり、一人で外にいたら変な人に話しかけられて屋外で写真を撮りたくなくなり、そこからは自宅で七十二候を撮るなどしていた。

それがどんなに地味な一年であれ、たかだか人が一年生きるだけでも、平坦な毎日はあり得ない。

悪いことも起こる日常に棹させるのは、撮り続ける意地と実際の行動だけだった。勝手に流れる季節に助けられることもあるけど、前のめりに季節を感じにいく能動性こそ、私が撮る七十二候の中心を占めていた。

それでも季節を撮り続ける

側から見れば、ただ食べ物とかの写真を72種類撮って更新するだけの日々。表現や創作はとかく独りよがりになりがちで、他人から評価されることでしか独りよがりを脱せない。この七十二候シリーズは、まさしく独りよがりだった。

手を動かせば動かすほど、自分の能力と限界を知る。写真、料理、お菓子、お茶、こじつけ力…バラバラしたスキルを組み合わせても、このぐらいしかできないのかもと実感してしまう。

それでも七十二候を撮り続けることで、ただ他人を見ているだけの人間にならずに済んだ気がする。

もし他の人が七十二候シリーズを撮っていたら、私もやりたい!と思っただろう。いや、二番煎じと思われないように他の人とは違う方法を考えたはず。

他の人に先を越されたら悔しいと思えることを、真っ先に自分がやる。
それが私にとっての創作だ。

振り返れば、過ごした季節の数だけ写真があること。
写真に費やした労力の分だけ、思い出があること。

その事実ほど、私がこの一年生きていたと証明してくれるものはない。
その写真と思い出ほど、こうやって一年を生きられてよかったと思わせてくれるものはない。

これから先も、1年の時間を与えられたらまた七十二候を撮ると思う。その時は1万×72候の予算で七十二候を撮るはず。さらに予算があれば、別の県や国で七十二候を撮っても絶対おもしろい。

リッチになろうと歳を取ろうと、規模が違うだけで今と似たようなことをしてるだろうなと思える日々を、20代最後に生きることができた。

2022年に撮った7枚のプリントがまだ届かないので65枚

無事に終わってホッとしてる間に、また七十二候の第一候が始まった。
今度は二十四節気シリーズや、季節の郷土料理シリーズを撮ろうかな。

誰かに先を越されたら悔しいものを、誰に頼まれるでもなく、でも誰に見せても恥ずかしくないと思える、最大限の質で出し続ける。

そうやって創作したい対象があるのは、それだけでとても幸せなことかもしれない。



※七十二候シリーズはInstagramのまとめ機能(20候ずつ4まとめ)や、Twitterのモーメント機能(前半後半)でまとめています。


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