5.3. 小括:「働き方」と「自分の人生」
茶道界の「働き方改革」
これまで「茶道」を仕事にする最も一般的な方途は,茶道教室の教授者になることだった。
もちろん教授者以外にも,茶道具屋や,茶道体験ができる施設に勤める人々など,茶道そのものを本業にしている人々も少なからず存在する。
こうした人々に共通しているのは,社会に出る前から「茶道」を仕事にすると決めていた点だ。
本稿の主要なインフォーマントの場合は,新卒時に「茶道」と関係のない職に就いたために,本章が辿ったような「お茶」と働き方を巡る議論が生じた。
「茶道団体」は,茶道教室以外の「お茶」の在り方だけでなく,現代の働き方の多様性を反映するかのように,「お茶」と(で)「仕事」をする方途を示している。
職業形態が固定されていた茶道界にも,働き方の多様性の波が広がりつつあるのだろう。
「自分の」お茶と「自分の」人生
本章(5.1.2.参照)で明らかにしたように,インフォーマントは「仕事だけ」になる危機感を抱き,「自分の時間」や「自分の人生」を希求していた。
会社や他人に時間を奪われず,「自分の時間」を持つことへの強いこだわりは,本稿のインフォーマントに少なからず共通している。
そして彼らは,「自分の時間」を確保し「やりたいこと」をしながら生活していくこと(=「自分の人生」を生きること)が理想の働き方であるという認識も共有していた。
「茶道団体」の代表者の語りには,この「自分の」という接頭辞が何度も表れる。
本来なら自己の介入する余地の無さそうな「伝統」について話す中でも,「私」が何度も登場した。
このようなインフォーマントの「自分中心性」は,「自分の時間/人生」への渇望から来るものだったと換言されうる。
「伝統」を踏襲し,先人の模倣を目指す茶道教授者という働き方では,「自分の人生」を生きている心地がしないのだろう。
だからこそ,彼らの「お茶」は,「茶道団体」のような型が未完成の,自分たちが中心となってこれから創り上げる形態でなくてはならなかった。
お茶「専業」だけが目標ではない
一つ追記しなければならないのは,「お茶」そのものを本業にすることだけが,「自分の人生」を生きる唯一の方法ではないということだ。
仕事の中に「お茶」を介在させ,「お茶」と仕事の比重を考える過程そのものが,「自分の人生」を生きることなのである。
つまり,全員が全員「お茶」の比重を100パーセントにすることが理想の「自分の人生」なのではない。
その比重がインフォーマントによって異なるからこそ,彼ら一人ひとりが「自分の」人生を生きているという感覚が得られるのだ。
2010年代という時代性
例えば仮に,茶道修練者が皆一様に「茶道団体」のような活動を始めたとしよう。
その場合,ただ「お茶」をしているだけでは,他の「茶道団体」との差別化はできなくなるだろう。
そして前頁(5.2.4.)で触れたように,「面白みも変化もないありふれた」「お茶」では,「自分の人生」を生きているという感覚は得づらいと考えられている。
つまり皆が「茶道団体」のような活動をするようになってしまうと,「自分の人生」という感覚を得るためには,さらに差異化を図れるような価値を創出しなければならなくなる。
このとき,自ら望んで「茶道団体」を興して「自分の人生」を追い求めていたところが,半ば強迫的に「自分の人生」を追い求めなければならないように感じられるだろう。
この流れは第1章(1.3.1.)でも触れた通りである。
自分の立ち位置や価値を,長期に渡って確証してくれるものなどないために,能動的に始めたものが後々負担にもなりうる。
傍目には「好きでしていること」でしかない活動が負担になるこの構造は,一般的な趣味のような「好きで始めたこと」とは一線を画していないだろうか?
主要なインフォーマントにとっての「お茶」が,「趣味」を超えていると主張する根拠はここにある。
この危うげなバランスの中で,彼らは生活している。
それがこの2010年代の時代性だ。
「趣味」と「仕事」を横断する(原文に追記)
以上を勘案すると,現代において理想的とされているのは,「お茶」を純粋に趣味と割り切ることでも,「お茶」を全て仕事にすることでもでもないのではないか。
その理想に近づくには,仕事と「お茶」のバランスを一定に定めてしまうのではなく,常に更新し続けることが必要だ。
すなわち,「趣味としてのお茶」と「働き方としてのお茶」を,自在に横断すること。
その自由こそが,この現代で「自分の人生」を生きるために求められているのではないだろうか。
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