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賞賛も批判もせずに「解釈」するということ

批判的な文章が溢れているのは学術界ではなく,ネット上だ。

例えば論文では,先行研究のような他の研究者が書いた文章に対し,どの視点が足りないなどと指摘し,自分の観点をその上に重ねる。この過程とネット上の批判は,どのように異なるのだろう

自分には理解できない出来事に出くわした際に,私たちはどのような態度をとれるだろうか。

3つのアプローチ方法

ある人々の文脈を汲み取ろうとする文化人類学や社会学的な研究では,3つのコアアプローチがあるとされる。〔箕浦 2009: 2-8〕

論理実証主義的アプローチは誰の目にも同じように見える客観的世界(「真理」とか)が存在すると信じてる人が,知見を一般化しようとする立場。

一方で解釈的アプローチ批判的アプローチは,どちらも唯一無二の客観的世界なんてないと考える立場だ。
どんな観点に立つかで社会的現実は変化すると考える。


ただし解釈的アプローチは,行動や状況に着目して「分かろう」とすることに主眼がある。
そして批判的アプローチは,悪しきものを「変えていこう」とする志向が強い。

論文の中でも批判をメインとしてるのは,箕浦の挙げた3つのアプローチのうち1つだけだ。

修士論文を事例に

私の修士論文のあらすじを一言で言うと,「伝統」的な茶道も前衛的な社会人茶人のするお茶も,決して反発し合うものではなく,両方とも現代の「お茶」である,というものだ。

つまり私の修論は,解釈的アプローチで書かれている。
「お茶とは何か」に答えを出すのが論理実証主義的アプローチである一方,私は「人々や本人がお茶と呼んでいるものがお茶」という立場を取っているのだ。

(この点は以下の記事で掘り下げています。)

例えば「伝統」と「前衛」と並べると,どちらか一方の正当性を訴える文章(批判的アプローチ)が思い浮かぶ。
事実,私がインタビューした人々(インフォーマント)は現行の茶道の問題点を挙げ(第3章),改善案としての本人たちの茶道を同時に示している。

しかし「問題点を主張して解決策を示す」この流れは,インフォーマントの行動であり,調査者の意図ではない。

むしろそれほど批判的な目を持っておきながら,なぜ茶道を辞めないのか。そこにはインフォーマントなりの理由があるのではないか

そこに関心があり,彼らを追っていた。


例えば仮に,茶道教室にそんな使途不明なお金は払っちゃいかん!などと訴えたとしよう。
この主張が正論かどうか以前に,それは(主に当事者ではない)ある立場の人間の意見だ。

なぜなら,ある立場に立たない限り,それが正論かどうかも判断できないからだ。
そしてその「正論」を正しいと思うのも,ある立場の人間だけだ。

全員にとっての正解はもう,存在しなくなりつつある。(おそらく,元から存在しなかったと思っている)


他者の合理性と自己の不合理性

私は修論という具体例を差し出すのみにして,ここからは専門家に依拠しつつ話を進めたい。


本書で扱われている内容の一つが「他者の合理性」である。
(調査者にとっては)不可解に思える人も,本人には理由があって,いたって合理的な判断のもとに生きているという考え方だ。

一方で,自分が合理的だと思ってる判断も,誰かにとっては不合理かもしれない。
これが「自己の不合理性」

先述の「そんな使途不明なお金!」というのは,調査者自身が無意識に抱いていたバイアスに他ならない。
このバイアスが無い人にとっては,お金を払うことは正解になり得る


ディスる文章が産み“出さない”もの

では「他者の合理性」に寄りそうでもなく,かつ「自己の不合理性」に無自覚な文章はどうなるのか。

最も問題があるのは,「他者の合理性」でも「自己の不合理性」でもなく,「他者の不合理性」を記述する調査です。
これに依拠した書き物からは,ほとんど学ぶものがありません。〔岸 2016: 147〕

あくまで一例だが,お金を納める方が悪いなどと結論づけることは「他者の不合理性」を強調している。そこでは「自己(=書き手)の合理性」が前提にある。

なぜお金を納めるのか,すなわち他者の理由を知らない批判は,ただの持論だ。

この手の調査には「調査をしたからわかったこと」が書かれていません。なぜなら,調査をせずともわかっていることを,自らの通俗的な「ものの捉え方」でなぞっているからです。その結果,問いが深められた形跡のない書き物ができあがるのです。〔岸 2016: 147〕

「他者の合理性」に無頓着な書き物では,何かが間違っていると主張することが,元々の持論が正しいと主張することと同義になっている。

外の出来事や調査を引き合いに出し,持論の正当性を訴えたところで,実は元々の持論以上の何物も生まれていないということだ。


相手の持つ合理性,つまり行動の理由を知ることなく,間違い(に思えること)を指摘することも,嫌うことも,文句を言うことも容易だ。

普段している「批判」とは,なんて小手先の動作なのだろう。


何か描写して,そこに否定的な含みなど込めたところで,不愉快な引っかき傷しか残せない


私が立ち向かったものは,インフォーマントが見せてくれた,この世界のほんの一部だ。
山ほど思うところはあるのに,描写はできても,何を「きちんと批判」できようか。


批判の限界と「圧倒的肯定」


「批判すること」に心が砕け,結論の中で肯定に辿り着く。

今日まで受け継がれてきた流派の「茶道」も,
そこから派生した独自の茶会も,
「今ここ」に生きる社会人の「お茶」も,
全て正しく,等しく,「現代のお茶」だ。

理解を超えたものへの嫌悪感そのものは了解できる。
しかし本当に「茶道」を後世に残したいのであれば,必要なのは,この世界に実際に起こっている「お茶」を肯定することだ。
〔矢島 2017 引用は6.2.から〕


修論のあとがきで触れた真の帰結が「圧倒的肯定」だったのは,偶然ではない。

論文は,ただ批判するための文章でも,持論をただ補強するための文章でもない。

研究を通して,人の数だけ,彼らが対峙する世界を見る。
人の生活を,ひたすら聴き,時には読み,描写し,分析する。

その過程では,批判材料よりも誰かの合理性に「気づく」ことの方が多い。

私もまだまだ,人類学的視点を手に入れる途中だ。
しかしこの視点の先に,ニュートラルな世界が見えるようになるのではないかと思っている。


(修論シリーズが終わり,新マガジン「これもお茶だと言い続ける」を作りました)。


参考文献

箕浦康子(2009)『フィールドワークの技法と実際〈2〉分析・解釈編』ミネルヴァ書房
岸政彦ほか(2016)『質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学』有斐閣ストゥディア

下記の自分の修論も一部参照しました。



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