6.2. 結びに代えて
「自己流」が批判的な意味を持つ世界
インフォーマントは茶道教室以外のお茶の在り方を示し,人々に「こんなお茶があるのだ」と思わせてきた。
同時に,「これは(私の知っている)お茶ではない」という反応も引き起こしている。(4.4.1.1.参照)
ここでまず,「これはお茶ではない」という言葉が,なぜ皮肉を含み,批判的な意味を持つのかを考えたい。
「お茶とは何か」という問い
「お茶とは何か」という哲学的な問いは,「お茶」の定義を定めるためのものだ。
つまり「あれはお茶」で「これはお茶ではない」と判断するための問いである。
一方で,文化人類学や社会学におけるアプローチでは,「人々がお茶と呼んでいるものがお茶」という立場を取ることがある。
すなわち,「これはお茶ではない」という言葉が批判的な意味を持つのは,「お茶とは何か」という問いの元で「茶道」をしている場合に限られる。
しかし本稿は,「お茶とは何か」を議論する意図はない。
全ての事象は,人により解釈が異なる。
そのため,「インフォーマント本人がお茶と呼んでいるものがお茶」という立場をとった。
茶道を「勉強」した功罪(1)
平成前期から現在にかけて,「総合文化」としての茶道を「勉強」する姿勢が支持されてきた〔加藤 2004〕。
この「勉強」の過程そのものを目的とする者もいる。
しかし多くの場合,この「勉強」の最終目標は,「お茶とは何か」を理解/判断できるようになることだといえる。
茶道を「勉強」することで,審美眼も養われ,茶会や道具の善し悪しの判断を下せるようになる(judgmentalになる)のだろう。
茶道を「勉強」した功罪(2)
筆者の理解では,人が「勉強」するのは,他人や他人の思考を否定しなくてもいいと思えるようになるためだ。
「否定的であること」は,造詣が深いこととは全く異なる。
造詣が深く,世界が広いことを知っている人であれば,その分だけより多くの事物を認められる。
ここでいう「認める」とは,必ずしも称賛や同意をすることではなく,否定する必要性がないと気づくことだ。
世界を変えるのは「圧倒的な肯定」
本稿のインフォーマントのように,忙しない日常の真っ只中に「お茶」を取り入れ,平日の仕事後に稽古に通い,残業の合間に茶を点て,茶会活動に土日を費やす人々の「お茶」の是非を問うなど,甚だ見当違いの非力な問いである。
今日まで受け継がれてきた流派の「茶道」も,
そこから派生した独自の茶会も,
「今ここ」に生きる社会人の「お茶」も,
全て正しく,等しく,「現代のお茶」だ。
理解を超えたものへの嫌悪感そのものは了解できる。
しかし本当に「茶道」を後世に残したいのであれば,必要なのは,この世界に実際に起こっている「お茶」を肯定することだ。
「自分のお茶」をするということ
以上を踏まえ,今後議論されるべきは,誰かの「お茶」の可否ではない。
「ではあなたは,どんな『お茶』をするのか」であろう。
教授者に教わった通りに稽古と免状を積み重ね,自らも教授者になり,教わった通りに自分の生徒にも教える──
その整然とした流れの上に従来の茶道はあった。
しかし今や「お茶」は,受け身で楽しむものではなくなりつつある。
ここでいう積極性,能動性とは,数多の習い事から茶道を選んだ点に現れているのではない。
茶道教室そのものから飛び出していること,
仕事と「お茶」の比重を試行錯誤すること,
「お茶」という趣味が「働き方」にまでに影響を与えるほど,自身の価値観に忠実に生きることに現れている。
人々が茶道教室に通い始める理由に主体性を見ていた,過去の茶道修練者研究を反駁し,新たな論点を投じることができていれば幸いである。
↑あとがきもあります。
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