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第46回村長散歩日記 【日常散歩編】240526(ときどき配信)

(島田啓介マインドフルネス・ビレッジ村長による村長日記です♪)
*ひと月ぶりの村長日記、今回は連休のイベントを終えて、大きく体調を崩し、様々な山坂を経てようやく戻ってきた感があります。去年の暮れころからこれほど不調が続いたことはなく、ある意味新しい体験でした。生活するのがやっとのこともありましたが、何とかここまでこぎつけたことを感謝して書いています。

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【第46回:大変なときほど基本に戻る】


*人間は体をもって生まれてくる。いや、体と共にこの世に来ることを、生まれるというのだ。だからこそ、体の調子はとても大切だし、ある程度の年になれば健康がおもな関心事になるのは当たり前だろう。
近年好調さが続いていたぼくは、すっかりそのことを忘れていた。体調が良いことが当たり前で、良ければ何でもできるという傲慢さに陥っていたようだ。すると詩は間遠になる。疑いを持たない威張った状態では詩は書けない。むしろ矛盾や鬱屈を抱えている精神から詩は生まれる。

 ずっと前に鬱状態で2か月ほど籠っていたころ、社会的にまったく活動できない自分の無価値を嘆いていた。孤立と無価値観ほどつらいものはない。そのときには瞑想の習慣がまだなかったし、あったとしても持続するほどの意志力はなかったろう。そのころ支えにしていた言葉がある。
何もできなくても「微笑むことはできる」という言葉だ。出所は聖書だったかと思う。いや聖書のことを思って浮かんだフレーズだったのかもしれない。マインドフルネスの実践とじつは一致していた、と気づくのはずっと後になってからのことだ。



 無力感に包まれていると実際それ以上の気力は出ない。微笑みは何かの役に立つわけではない。それでも呆然と明け方を迎え、白々とした朝の光にまず微笑むことが、今日は生きていけるというほのかな確信を運んでくれた。
それは消え入りそうな弱々しい確信で、0と0.1ほどのわずかな違いだが、自分には絶大な意味があった。その時期は言葉が食べ物になっていて、だから詩をたくさん書いた。書いてそれを栄養にしていた。
苦しいときには、この基本に戻る。ただ微笑むこと、苦に気づくこと。気づいて微笑むことは今では習慣になっているけれど、調子を崩していたこの半年ほど切実だったことはない。調子の振り幅が大きい時期には、そのボトムを心に置く必要がある。自ずから謙虚になる。謙虚さの中でしか気づきは育たない。
 コロナの時期に夜の瞑想会を始めて四年以上が経つが、最初からやり方をほとんど変えていない。初期から続けて参加している人も多くいる。ただ休まず淡々と続けているだけなのだが、何度も訪れた不調の時期にはとくに支えられた。とりわけ工夫があるわけでなく、何の秘訣もない。気づきと微笑の実践を繰り返している。それだけだ。
 そうして身に染みたのは、シンプルな実践がもっともパワフルなこと、共有する人たちがいるありがたさ、気づきは巧拙ではなくむしろ恩寵であること、などなどだ。大切なのは、やめずに続けることなのだろう。続けることで、向こう側から遠いこだまのように聞こえてくる、何らかの意味がある。
微笑むだけで十分だ、ということ。慣れてしまうとそれがわからない。いろいろ付け加えるほうがいいと思ったりする。さらにはそんな単純なことでは物事は解決しないなどと、軽く見始める。
 十分とは適当ということではない。それにすべてを込めることだ。調子が良いときには、それがなかなかわからない。集中とは本来、すべてを注ぎ込むということだ。生きているすべてを、どれだけその瞬間に注ぐことができるか?
 朝目覚めて、寝床の中で鳥たちのさえずりを聞く。彼らは一心に、ただ一心に鳴いている。生きることがくっきりとしてくる。私もまた、今日ただ一心に鳴くがごとく生きよう、そのひとつの言葉をよすがに身を起こし、微笑んでみる。微笑むことができる。よし、大丈夫だ。

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