今、居酒屋で語ってほしい教育論


居酒屋での教育論とは

皆さんは「居酒屋での教育論」という言葉をご存じですか?
この言葉は、教育問題について個人の体験に基づいて熱く語ることを指し、科学的根拠に基づいた教育論とは対比される表現を指します。つまり自分が学生時代に経験したことを基準にして「今の教育はこうあるべきだ」「今の先生はこうだからダメなんだ」「俺が顧問ならこうする」などと世間の教育を肯定したり、批判したり、アンチテーゼを投げかけたり・・・。よく居酒屋で見られる、感情で語られる状況対して作られた表現のことです。「居酒屋」というフラッと入れる場所で、「学校」というほとんどの人が通ってきたからこそ語ることのできるもの「教育」。だけど実際は個人の経験や感情で語れるほど簡単なものではない。というプライドの垣間見える皮肉表現です。
実際に私がこの言葉を初めて聞いたのも大学4年生の教育関係の授業のときで、「先生になりたい!」と燃えていた私は日々の科学的根拠に基づいた授業を聞きながら、「確かに教育は個人の経験のみで語るものではないな!」とうなずきながら教授の話を聞いていました。
そんな言葉に今日、危機が訪れているのではないかと思っています。
今回は昭和・平成・令和の保護者・生徒と学校の視点から今後の教育について考えたことを書かせいていただきます。

昭和親父のリアル「居酒屋での教育論」

私が社会人として働き、華金(部活の関係で早めに帰りますが)の味を覚えたころ、かっこをつけて1人で大衆系の居酒屋に行くことが金曜のお決まりになっていました。カウンターでウーロンハイを片手に1人串を食べていると顔の赤いおっちゃんが隣の席に座ってきて「若いのに1人で飲むなんてめずらしいね。一杯飲みな。」と声をかけてくれることもお決まりです。この挨拶の後の決まり文句は「あんちゃん仕事何してんの?」か「彼女はいないのかい?」で、ここから始まるのが「リアル居酒屋での教育論」か「おっちゃんのアンリアル女性関係武勇伝」でした。(今回武勇伝は省略させていただきます)

皆さんもイメージできるかもしれませんが、ここで語られる教育論は大体「昭和の教育」に基づいて構成されています。これこそ完全なる「居酒屋での教育論」であり、あの言葉の通り己の経験と感情を全開にした教育論が展開されます。
例えば・・・
・言うこと聞かなかったらぶっ飛ばしちゃえばいいんだよ(多分やられてた)
・体育館の裏で一緒にタバコ吸ったらヤンチャなやつから信頼されるぞ(多分求めてた)
・女子生徒は優しく抱きしめるくらいがちょうどいいぞ(これは酒の勢い)
などなど。
もちろんこの話に現代における教育の学びはほぼありません。だけど私はこのファンタジックな時間が結構好きで、いつも「この破天荒なおっちゃんたちが慕った先生はどんな人だったんだろうか」と考えるばかりでした。ただ時代が違っても、先生たちの苦労はもちろん想像できるし、ちゃんと指導できているのだから本当に尊敬します。そして、この時間が好きである1番の理由は、おっちゃんたちから聞こえてくるどんな話も最後は先生への感謝や恩義で終わることです。「俺らの時は...」から始まるワルやって怒られた話も先生にぶん殴られるのが当たり前だったという話も最後は必ず先生への感謝が含まれているのでした。

平成のモンスターペアレント

ここからは私が教員になった平成の話になります。私が教壇に立つおよそ10年前にはこんな言葉が流行しました。その名も「モンスターペアレント」。学校に対して、常識の範疇を超えた要求や苦情を繰り返し保護者のことです。高校とはいえ教員になるにあたって不安視していたのはこの存在でしたが、やはりお目にかかるのは1度や2度ではありませんでした。
実際、教員生活1年目の夏には、部活でベンチに入れなかった生徒の保護者から被害に遭いました。具体的には・・・
・学校に怒鳴り込んでくる。
・毎日のように文句の電話がかかってくる。
・待ち伏せされて2時間立ちながら説教をされる。
などなど。そして、こう言う親がだいたい言うのが、
「私モンスターじゃありませんから(ドクターX風)」
今考えても恐ろしい日々でした。

ただ当時、恵まれていたのは周りの先生や管理職に理解があったことです。やはり同じような境遇にあい、悩みを抱えてきたからこそ親身に聞いてくれたり、解決の手立てを教えてくれたり、校長も最後には出てきて守ってくれたり。教育の指導上仕方のないことには堂々とぶつかってくれました。この姿を見て「私も一層責任感を持って働こう。この人達みたいな先輩になろう」と思ったことを覚えています。また私の勤務校では実際に親が訴訟にでてくるケースはなく、主任が話を聞いたり、管理職が出て行ったりすることで次第に沈静化していきました。生徒も現実を受け入れて前に進んでいくような様子があり、そこにあったのはもしかしたら「どうにもならないのはわかってるけど話を聞いてほしかった」と言う感情だったのかもしれないと今なら思えます。
自分たちが生きた時代を思い出し、先生への一定の尊敬や感謝のようなものがあるからこその保護者の着地点、そして学校の毅然とした対応だったのかなと思います。

居酒屋の話が教育に直結する令和

時は進み、あれから7年。最近切に感じることは「居酒屋の教育論」は果たして皮肉表現であり続けているのかと言うこと。以前の投稿でも書いたように近年「カス親(カスハラする親。著者の造語)」は間違いなく増えてきています。ただ平成のモンスターペアレントとも違うのは落としどころがないと言うこと。県や市の相談窓口やYoutube、インターネットを利用して情報を仕入れて校則を破ることや欠席しても単位を認めさせようと必死になってきます。またスマートフォンのボイスレーコーダー機能を使ってなんでも録音してくる始末です。(盗聴や秘密録音だけでは犯罪にならないことも調査済みで)

また同様に学校も過渡期にあるという感覚を持ちます。先述した昭和の学校はもちろん、もはや平成の管理職の存在も絶望的です。現代の学校は「教育」という信念のもとに進んでいくことはおそらくありません。どれだけ正しいことを言っても少しでも訴えられる可能性があればその瞬間に正義ではなくなります。チーム学校という感覚を捨て巻き込まれないよう身をひそめる同僚、会議では調子のいいことを言って、校長の一声で手のひらを返す教頭、そして保護者に訴えられることを恐れ、部下を守ることを忘れた校長。
そんな場所で職員は何を伝え、生徒は何を学ぶのでしょうか。

学校が学校であるために

ブラック校則という言葉や叱るという指導がパワハラとみなされる今、ごく当たり前に存在していた学校というものは実は「信用」ありきの存在だったんだということに気付かされます。もちろんいき過ぎた指導やあまりに合理性のない校則は大きな課題だと思いますが、その主張が度を超えてきたとき、人から教わることを失った学校になんの価値があるのでしょうか。
今日の社会は居酒屋で思いついたことを学校相手に主張し続けていればそれが実現になる可能性があります。もはや「居酒屋での教育論」は皮肉的な表現ではなく、学校社会に進出しつつあるのです。学校が学校であるためには何が必要になのか。人間が勇気ある決断をできなくなったときにとうとう教師はAIに代わられてしまうのではないか。そんなことを考えるばかりです。どうかこれからの生徒と、先生達に手を差し伸べるものを一緒に考えていただけたら嬉しいです。
今回もご覧いただきありがとうございました。

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