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一年に一度しかない、今日という日に


今日、11月15日は私にとって特別な日。
noteを始めた日であり、そして親父の命日。

山に囲まれた田舎で小さな居酒屋をやっていた親父は昔気質な料理人だった。

客商売なのに、無口でそして絶望的に口下手。息子の私さえ、親父と二人っきりになると何を話していいかわからず困ったぐらいだ。


私が小学生の頃
家にいても親父とは出来るだけ二人きりにならないようにしていたのだけれど、必ず二人だけになる時があった。

それは、半年に一度ぐらいのペースで買い物に行っていた、ちょっと都会のショッピングセンターでゴハンを食べる時。

ウチは親父とお袋、そして私と弟の4人家族。ゴハンを食べる時はほぼ毎回、私と親父、そしてお袋と弟に分かれた。

いつでもどこでも麺類を食べたい私と親父に対し、お袋と弟は麺類以外が食べたかったからだ。当時、お袋と弟は「麺類なんて家でも食べられる」と、たまの外食では普段食べられないものを食べたがった。

時代は1970~1980年代。
今ならどんなメニューでも揃っている「フードコート」で一緒に食べることができるけれど、当時、田舎の小さなショッピングセンターにはフードコートなどなかったため、食事をするにはどこかのお店に入るしかなかった。

私と親父は飽きることなく、毎回同じラーメン屋さん。

いつものように向かい合ってテーブルに座る。そして、ラーメンが来るまでひたすら無言

「最近、学校はどうだ」とか、「友達とは何をして遊ぶんだ」とか、一般的な父親と息子のやり取りなど一切ない。

親父はただ黙ってラーメンが来るのを待っていた。だから私も、黙ってラーメンが来るのを待っていた。

子煩悩なのに、二人きりになると子供とどう接していいのかよくわからない、親父はそんな人だった。

ラーメンが運ばれてくると、小さく手を合わせたのち、私と親父は何も言わずに食べ始める。

少しして、親父が一言、

「ウマいな」と呟く。
「うん」私が答える。

食べ終えると、親父はすぐにお店を出る。私はいつも、その背中を追いかけた。

ラーメンを前にしたら、ただひたすら目の前のラーメンと向き合う。親父が「ウマいな」と言えば「うん」と答え、親父に「ウマいか?」と訊かれたら「うん」と答える。

それは「親父が怖かったから」でも「逆らえなかった」からでもない。

男二人でラーメンを食べる、それが小学生の私にはちょっとだけ大人扱いしてもらえているみたいで、なんだか少し誇らしかったんだと思う。そして───


私は中学生になった。

そのあたりで私はいわゆる「反抗期」に入り、親父とは常に冷戦状態だった。

家の中でも出来るだけ顔を合わせないよう、可能な限り親父と二人きりにならないようにしていた、そんな頃。

たまたま真夜中に目が覚めた時、キッチンから何やら音がする。気になった私がキッチンを覗くと、そこには親父がいた。鍋を火にかけ、何かを作っている。

「・・・ラーメン、食べるか?」
私に気づいた親父が尋ねる。
「・・・うん」
素っ気なく、私は答える。

椅子に座ってラーメンが出来るのを待ちながら、私はただ、親父の背中を見ていた。

少しして出来上がったラーメンを、二人で向かい合って食べた。

「ウマいか?」
「・・・うん」

何度かそんな夜があったことを覚えている。そして───

高校生の頃。
家族が寝静まっているなか、私が自分の部屋で勉強をしていると、遠慮がちにドアをノックする音がしてドアが開いた。そこには親父がいた。

「ラーメン、食べるか?」
「うん」

私が夜中に勉強していることを知っていた親父は、そうやって時々、夜食にラーメンを作ってくれた。

私の部屋にラーメンを持ってきてくれた親父がボソッと、
「あんまり無理するなよ」
そう言って静かにドアを閉め、自分の部屋に戻っていった。

その背中は遠慮がちで、なんだか申し訳なさそうに見えた。息子にそんなに気を遣わなくてもいいのに。

私は一人、ラーメンを食べた。
そして───


私は大学進学で実家を離れ、大学卒業後はアルバイトをしながら東京で一人「夢」を追った。

その夢が叶うまでの「何者でもない」約10年間、実家へ帰省するのは心苦しかった。

同級生たちがちゃんと就職して働き、なかには結婚して子供がいる友人もいたのに、私一人だけ、暗闇の中でもがき続けていた。

「今からでも就職したほうがいいんじゃない?」

お袋からはそう言われ続けた。
でも、親父は何も言わなかった。

年に一度か二度の帰省。
実家のお店を手伝った私に、閉店後、親父はよくラーメンを作ってくれた。

一人でカウンターに座り、私はラーメンを食べた。

「ウマい」
カウンター越しにそう言うと、親父は何も言わず、嬉しそうに頷く

大学まで出してもらったのに、叶うかどうかわからない夢を追っている私を親父はどう思っていたのだろう。

ただ───
一度だけ、背を向けたまま、親父がボソッと私に呟いた。

「大変やったら、いつでも帰ってこい」
「・・・・・うん」

アルバイトをしながら夢を追う生活が10年近くになっていた私に、その言葉は沁みた。

私に背を向けた、親父のその優しさに、泣けた。

親父とのことを思い出す時、そこにはいつもラーメンがあった。それを私は、こんな風に思っている。


ラーメンに会話はいらない。

食べている途中で会話をすれば、あっという間に麺は伸びるしスープは冷める。美味しさが台無しだ。

それでももし、どうしてもラーメンに会話をトッピングするなら、一言だけでいい。

「ウマいな」とか
「うん」とか。

たったそれだけで、相手となんかわかり合えた気がする。料理人だった親父は誰よりもそのことをわかっていたのかもしれない。

それに、もともと無口で口下手だったからこそ、親父にとってはその一言で十分だった。わずかな文字数に込められた詩の世界のような、親父の一言には大きく深い意味が込められていたのだと、今は思う。

「ウマいな」
「ウマいか?」

親父のその一言ひとことがとても懐かしく、そして温かい。

どんな料理を作る時も、本当に仕事が丁寧だった。時間がない時でもそうだから、しょっちゅうお袋から「早く!」とせっつかれていたのを思い出す。

タイパという今の時代には明らかに合っていない人だったけれど、間違いなく「本物の職人」だった。

そんな親父の息子である私。

私も「書くこと」への姿勢は親父譲りかもしれない。

親父が食べる人のことを考えて丁寧に料理を作るように、私もまた丁寧に文字を刻み、並べて作品を創る。だから───

絶対にいい加減なものは書かない。
自分が納得いくものが書けるまで、とことんこだわる。

親父の息子でよかったと、親父の命日に改めて思う。


昨年、11月15日のnoteです。


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