どこでも住んでいいのなら、私は一国一城の主になりたい
どこでも住めるとしたら?
想像の翼を存分に広げようと、家賃や職場までの通勤時間や利便性、スーパーの有無など、極めて現実的な条件は完全無視して勝手気ままに願望を並べてみた。
日当たりがいい。
美しい朝日と夕日を浴びたい。
自然に囲まれたい。
となり近所が離れている。
山の上。
その結果、現実離れならぬ浮世離れした場所が思い浮かんだ。それは
お城。それも山城だ。
城、それはその昔、お殿様が住んでいたお屋敷。日本には大小さまざまなお城が遺されている。
私は日本各地のさまざまなお城に住んでみたい。
もし「お城サブスク」があったら、夏は涼しい地域のお城へ、冬は温暖な地域のお城に住むのもいい。
城には歴史ロマンと人生が詰まっている。
例えば、織田信長が天下取りを目指しその足掛かりの居城とした岐阜城は難攻不落の城として君臨し、「美濃を制すものは天下を制す」という言葉はあまりに有名だが、有名無名に限らず、それぞれの城ではさまざまな歴史の欠片を感じることができる。
大広間では楽しい宴が催されていたかもしれない。大小さまざまな座敷では、密談が交わされていたかもしれない、もしかしたら、ロマンチックな男女の逢瀬に利用されていたかもしれない。台所では日々、季節の食材を使った料理が作られていたかもしれない。
きっと、お城のどこにいても、その場所が持つ思い出や記憶をそこかしこに見、そして想像することができるはずだ。
時間は戻ることなく日々過ぎてゆき、歴史は日々塗り替えられていく。
建物にはその時代を生きた人々の幻影と面影が染みついている。建物はいわば、繰り返される人々の歴史の証人であり、語らずともその佇まいがそれらすべてを物語る、まさに活きた教科書なのだ。
そして、今も昔も変わらないであろう、山城からの絶景。そこから見える四季の風景とその景観。朝日が昇り、夕日が沈む、悠久を感じながら日々を過ごすその贅沢さを味わいたい。
ただ、昔はまだ電気がなかったがゆえに、夜はほぼ真っ暗だっただろう。それを不便に思い、不満を感じたから人は火を起こし、やがて電気を発明し、いつしか夜も昼間にしてしまった。闇に光を当て、まるですべてを白日の下に晒すかのように。
もう、自分たちに見えないものなど何もない。
傲慢にも、人はそう考えたかもしれない。
しかし、わかりやすく目に見えるものばかりにフォーカスし続けたために、現代、人は想像力や空想力など、目に見えぬそのチカラを失いつつあるようだ。
目に見えないものはないもの、いつしか人々の心がそのように変容してしまったために、目には見えない相手の心だったり気持ちへの労りや労いを見失いつつあるような、そんな気がする。
ふと、殺伐とし始めている現代社会を俯瞰してみる。
人間の豊かな生活によって生み出される幻想的な夜のイルミネーションはとても煌びやかだ。しかし、その作られた美しさだけを見下ろし、目を奪われていたら、人は心の美しさや気持ちの優しさなど、目に見えないものを見る想像のチカラを完全に失うことになるだろう。
見下ろすことに慣れ、いつしかすべてを見下すようになったら人間はおしまいだ。
そんな時は空を見上げて欲しい。そこには夜空を彩る幾千もの星が輝き、そしてそっと優しく温かく私たちを照らしている。
信長や秀吉や家康はきっと、毎夜そのお城の主として仄かで優しい光の下にいるみんなの幸せを願っていたのではないだろうか。お城に住んだら誰しもが、そんな気持ちになるのかもしれない。
私は改めて、想像の翼を広げてみる。
どこに住んだとしても、みんながそれぞれに目には見えない、となり近所の人の気持ちや心を思いやることが出来たなら。
一国一城の主として、私は山城の天守閣でそんなことを思い、今宵も眠りにつく。