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《浜通り旅三日目》福島と東京と小学校
今回の徒歩旅全行程が無事に終わった。
これで「南相馬〜いわき」間、陸前浜街道をメインに徒歩でつなぐことができた。
原発事故で以前、全面通行止めになっていた区間を今回歩いて、すべてをつなぐことを夢見ていた。
朝、9時前に浪江のホテルをチェックアウトし、すぐ近くの道の駅に行った。まだ時間が早いから何もないかと思いきや、食べたい物がたくさん売られていた。
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道の駅にある、日除け付きのベンチで朝食。
朝の新緑の風を浴びながら、福島米のドでかいおにぎりとコーヒーで、優雅な朝食。
生き返った!
しばしのんびりして、歩き出す。今日のルートは直線距離だと5キロ程なので、海沿いに遠回りして、双葉駅を目指す。
昨日と打って変わって静かな道。
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歩いていると、「遺構、請戸小学校」の看板が出てきたので、行ってみることにした。
目の前がすぐ海の、請戸小学校。
入場料300円くらい、すごく良かった。
ここの小学校は、地震の後、すぐに全校生徒を一斉に先生が引率して内陸の小さな丘に避難、夕方落ち着いてから山を下り、避難場所へ向かっていると、通りかかったトラックの人が全員を荷台に乗せて避難場所に連れて行ってくれたそうです。全員安全に避難できた。
その模様が、紙芝居のように、展示のコース上に間隔をあけて表示されていて、一階部分を歩き終わると完結するので、集中力を切らさずに、想像力を強くしながら、学校を一周りできます。
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陸上自衛隊の方がここでの作業のときにメッセージを残され、それが保存されている。
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二階の展示は、津波のことだけでなく、地域全体のことや原発事故による避難当時のことに関して。
その中で、水素爆発によって放射性物質が大量にどの方向へ飛散したかが分かっていたのに、政府はそれをこのエリアの人に伝えなかった、という事実を映像で流していました。
何度も当時、聞いたニュースだったのに、忘れていた。
原子力発電は怖い。危険だ。でも、怖いのはそれだけではない。人々が問題だと感じたことも、人はすぐに忘れてしまう生き物だということも危険だ。
私達は、国を動かしている人達をしっかり監視して、より良い国の運営をするように働きかけなければ行けないのに、人の心は移ろいやすく忘れやすく、他に問題が起これば、怒りはそれに上書きされるだけで、前の問題を改善しないまま、それを繰り返しているように思える。
若い人たちは、そんな大人を軽蔑して、自分達で自分達の未来を作る力をつけていって欲しい。
そう思いながら学校を出て、まぶしい太陽の中、再び双葉駅を目指す。
途中「伝承館」というきれいで大きい、分かりやすい原発事故に関する資料館にも入館したが、もういい。
帰ろう。
三十分ほど歩いて駅へ。
時刻表を見ると次の各駅停車は水戸行き。
ということは、これに乗って水戸まで行けば、水戸の一回の乗り換えで、普通電車だけで東京に帰れる。
急がない旅、これも良いだろう。
昔むかし、福島県猪苗代湖で水力発電所ができた時、東京まで初めて送電線を引いた。その東京側で受ける変電所は田端変電所。
私の母校、尾久宮前小学校の目の前にある。
子供の頃は変電所のタワーを東京タワーだと思っていた。
福島はその後も火力発電所、原子力発電と様々な方法で東京に潤沢に電力を送ってくれていた。
私達は、その電力を湯水のように使って暮らしてきた。福島と東京は切っても切れない関係であり、私の街と福島の電力とは、この田端変電所でつながっている。
1911年(明治44年)、猪苗代湖の水で発電し、東京に送電することを目的に、猪苗代水力電気株式会社が設立さた[2]。同社は、猪苗代第一発電所(現在は東京電力リニューアブルパワー株式会社の所有)と同所から田端変電所(当時、東京府北豊島郡尾久村、現在の東京都荒川区)に至る約225 kmの送電線を完成させ、1914年(大正3年)、東京への送電を開始した[2]。これが福島県から首都圏に送電した最初の事例であり、以来1世紀にわたり、福島県は首都圏の繁栄を電力供給により支え続けてきた。
電力だけではない、野菜も果物も魚も米も。
福島の原発に限りなく近づいて、すべて歩き通し、自分の足で自分の体で、このエリアを感じることは、強い関心ごとであり、勝手ながら義務だと感じていた。
正しく恐れるべき事実と、頭でっかちの風評との違いを見極める洞察力と責任を、福島の大地を思い出しながら持ち続けたい。
今回の旅で、思い残すことないほど、やり切ることができた。地元の人に迷惑をかけたり、トラブルを起こさずに終わることができた。
もうすぐ、水戸に着く。
一旦下車して、居酒屋でキンキンに冷えた生ビールを飲んでから、ネオン眩しい東京に戻ることにする。これも電気のおかげなのだ。
3日間に渡って読んでくださった皆さん、ありがとうございます。