クリエイティブとは何なのだろうか
投稿する記事を書いていると
ああこれも書きたかったのだったなぁと
思い出したり思いついたりする。
これもその1つ。
私は昔、実家で母親からピアノを教えられていた。
音楽というか芸術というか、そういったものに
それなりの思い入れもあるつもりだ。
ただ、私がそうして生きてきた中で抱いてきた芸術観とは違うなぁと
感じることが特にここ10年くらいだろうか、度々ある。
まあそれに関わる話をする人が近くにいるというだけだが。
そのことについて書きたくなった。
〇芸術家はクリエイティブであるか
いやまあそうだろうと、
多分ほとんどの人がとりあえず言うのではないだろうか。
人によってはそれぞれの芸術家が
どんなものを創っているのかということに言及するかもしれないが。
でも、その図式を当然のことと飲み込む前に、気にしてほしいことがある。
“クリエイティブ”という言葉が何を意味するから、
その図式を認めているのかということである。
この言葉そのものが少し難しいというか、
個人のイメージによって差が出る印象をもつ。
結果的に見えやすいものを挙げるなら例えば
作曲家であれば曲、
演奏家であれば演奏、
画家であれば絵、
彫刻家であれば彫刻、
書道家であれば書や字、
あたりなのだろう。
これらを創作の“成果”と呼ぶとした時に、
芸術家は他の誰かには不可能な成果を創造する者であるから、
クリエイティブである、と言う。
おそらくこういう図式の人がそれなりにいると思う。
〇私と音楽
私が美術(お絵描き)が苦手だった話は折に触れて書いているのだが、
同じ芸術分野である音楽はどちらかというと好き、
またはそれなりに得意だった。
その理由は話としては単純で、
ある時から毎日休みなくピアノの練習をする時間が生活の中にできた。
それは、家で母親に教えられることになったからだ。
始めた当初どんなことを感じていたかは今や覚えていないが、
これまた苦しい時間になっている部分もそこそこあった。
指を動かす単純な練習が一番初めの頃からずっと続き、
後は少しずついろんな曲が増えていき、
母親が十分だと判断したら楽譜の次の曲に進む。
楽譜も最初は2,3冊くらいだったと思うのだが、
そのうち増えていき、5,6冊くらい(?)に増えていった。
手を怪我した時や、母親が練習会や発表会などで家を空けていた時、
高校では運動部に入ったのでどうしても時間が取れない時などを除いては、
基本的に毎日ピアノの前にいる時間があった。
おかげでというべきか、
今でもピアノや音楽を自分の生活の中での楽しみとしていられる。
〇練習は演奏ではなかった、と今更理解した
発表会などに出たことはほとんどないし、
練習している曲に特段思い入れがあるような曲はそれほど多くないのだが、
楽譜通りに弾くのが気に入らないことがほとんどだった。
まあ作曲者に対する冒涜だったかもしれないという考えも今なら湧く。
しかし、母親には楽譜通り弾くように要求されるので、
これがまあなかなか進まない。
1曲ごとの合格が遅くて、練習期間もその分長くなっただろうが、
ちゃんとやれば日に1,2時間程度で済んだかもしれない練習は、
何時間もピアノの傍から離れさせてもらえない事態になっていた。
今にして思えば楽譜通り弾くことは“練習”なので、
当然だったろうなあと思うが、その時はそういう理解はなかった。
ある曲を弾くとした時に、
練習するのか、演奏するのかはおそらく意味が違う。
端的に言えば練習をしないとその演奏法は身につかない。
つまり、自分の表現力を落とすことになる。
ある弾き方をしないということは、
その弾き方を選ばないこととは必ずしも同じではない。
私のしていたことは、
その弾き方をできるようになること(練習)を放棄していたことになる。
どちらかと言えば、
今できる弾き方を使って演奏をする、ということだったのだろう。
しかし、それを誰か(傍にいるのはほぼ母親のみだが)に聞かせたい、
とは微塵も思っていない。
何よりも、私はピアノを弾いている時、
本当に集中している時は自分のことしか考えていない気がする。
他の人にどう聞こえているかなんてほとんど考えない、
というよりも考えたくなかったのかもしれない。
だからこれはおそらく、自分に対する演奏だったのだろう。
自分の演奏を録音して聞くと、
演奏している時の自分が感じているよりも少しはましに思えるのだが、
中々演奏しながらにしては自分を納得させられない。
だから、自分を納得させられる演奏にたどり着きたかったのかもしれない。
(だったら練習しろよという気もするが、
多分それでたどり着ける気はしなかったのだろう。)
〇虚ろになるほどに悩みしかない演奏
私は自分が演奏して満足したことはほとんどない。
この素晴らしい演奏を聴いてほしいと思ったこともないし、
今日は満足のいく演奏ができたと思ったこともない。
何かの折に誰かの前でピアノを弾くことも時にはあるが、
褒めてもらってもお礼は言うが嬉しくはない。
弾き終わった後の自分は非常に冷めているし、虚ろだ。
ただただ、ここらへんの音が変だ、あそこの弾き方が気に入らない、
音を間違えた、失敗した、リズムがおかしかった。
その果ては、どう弾いたら心地よく感じられるのかわからない。
まあこんな具合だったと言ってもいい。
これらは大きくまとめると自分の欲求に技術が追いついていない、
ということになるのだろうかと思う。
〇人々は成果に心を奪われる
まあ私自身は芸術家として生計を立てているわけではない。
そして芸術家が私と同じ意見であると言う気もない。
しかし、私の積み重ねてきた経験と感覚が、ある言葉に異を唱える。
ある人が、
成果を創造することは、問題を解決することとは違う、
成果を創造するとは例えば芸術である、と私の前で言う。
そうなのだろうか?
自分にしか見えていないのかもしれない問題を、
ひたすら解決したくて仕方がない。
自分の中の気に入らない感覚が呪いにかかったように拭い去れない。
自分の中に憑りついたように離れない違和感を抱えたまま生きている。
苦労しているのではない、苦悩している。
努力しているのではない、突き動かされている。
そうしないではいられない、抗えない存在。
おそらくその問題が万事解決するなんて日はそうそう来ない。
しかし、そこまでの軌跡のどこかにはいる。
そんな時に、わかりやすいものを取り上げて、
それを成果だと呼んでいないだろうか。
あるいは、成果であると認めさせようとしていないだろうか。
その成果という概念を、
そうであるとして受け入れ、飲み込むことは非常にわかりやすい。
そのわかりやすさは自分以外の多くの人に
おそらく安心や幸福などを与える。
しかし、私自身がクリエイティブかどうかは知らないが、
私はもっと泥水の中で溺れるようにしながら、
つかまりたくなる藁さえ見つからずにピアノを弾く。
もしそれをかわいそうだと思う人がいるとしたら、
もう一言付け加えてもいい。
その時間こそが、もっとも私を私として育ててくれているのだと。
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