授業づくり~『ものを使った自己紹介と視点探し』~
この内容は授業といっても
小中高などにある特定の教科に依るものではないし、
自分にとっては、先日行った質的研究法の研修で行った内容である。
もちろん研修に組み込むからにはただ楽しいだけではない。
研修の成功のために必要な時間であり、なくてはならない活動である。
最も重要な時間であったと言ってもいいだろう。
ただ、この活動内容自体は
ある程度どこの校種でも使える部分があると思っている。
何ならどこかの企業や団体でも何らかのレクリーションでなど、
様々な形で使えるように思う。
先日の研修に参加していた教員からは、
「学級開きの時にしたい」、「理科室探検に使ってみたい」と、
研修ではなく学校の授業の一環としての見方も話していた。
研修の話は次の2つの記事にて書いておいたので必要であれば。
「質的研究法の研修をしてきた話①~kj法について~」
「質的研究法の研修をしてきた話②~当日の流れと様子~」
特に、②の「1.班づくりと自己紹介」、「2.お遊び」あたりが
実際の活動の概要となるので、こちらの記事では割愛する。
〇自己紹介で知りたいことは何か
自己紹介でただ名前や年齢や趣味などを言葉で聞くことに
それほど大きな意味は感じない。
それらの情報は言葉でしか我々にその人のことを教えてくれないし、
その言葉からその人のことを理解する術は自分の中にしかない。
その言葉に興味を持てなければ自分ではそれ以上のことを引き出せない。
引き出したいとも思わないことも多いだろう。
確かに意外で面白い自己紹介を言葉や話だけでできる人もいるだろうし、
それだけでもインパクトのある背景を示すことができる人もいるだろう。
しかし、誰もがそうではない。
端的な言葉だけではない、その人の考え方、発想、行動、好みなどが
一連の流れや動作として見えてくるような自己紹介になれば、
少しはその人のことを知れたと思うだろう。
言葉はある部分を切り取った事実や印象やイメージでしかない。
丁寧でつぶさな自分や誰かの存在を
それだけで示すことはある意味では不可能だ。
〇自分と他人が違うことはどれだけ意識できるか
至って当たり前のことのように思っている人はいるかも知れない。
これに近いニュアンスの表現はいつからか耳慣れたものとなった。
しかし、耳慣れていることがすなわち本当にそう思っていることではない。
むしろほとんどの人が本当はそんなことは思っていないように感じる。
普段はただ耳障りがいいだけで、
それが賢そうに聞こえるからか
そう思っているように思い込んでいるだけではないか?
本当にそう思ったり主張したりするのは、
自分がズレていると思い知った時に使う
言い訳程度だったりしないだろうか?
一緒に過ごしている目の前の人から、
日々そのことを実感しているだろうか?
これを読んでいる人の大半、あるいは全てが日本人だと思っているので
その前提で書くと一応前置きしておく。
(その前置きが必要か、そして適切かは判断しづらいところはあるが。)
“誰もがいつでも”とは言わないが、
空気を読むことに慣れているし、
当たり障りのないことを選ぶことを好むし、
同調意識も強めの傾向にあるだろうし、
食い違いや不一致に敏感な気もする。
常識や普通や前例という言葉で何らかの規範や正当性を示すことも多い。
それらのことを遠ざけるような意識をもつ人も
(特に若い人の中には)いくらかいるだろうが、
それでもふとした、特に日常的なことについては
そういう場面はよくあるのではないだろうか。
*書いていてふと思ったことだが、
日常生活の事象や事柄について、「おかしい」とはよく言うが、
「間違ってる」と言う人はあまりいないように感じた。
まあそれがどうしたという程度の話なのだが、
ズレは指摘しても、正誤や真偽はあまり指摘しない、
あるいはそういう見方そのものをあまりしない、ということだろうか。
(そういう見方をすると、また興味深いものがある。)
目の前にいる相手は確かに
名前も顔も生まれも性格も経歴もほとんど違うだろう。
しかし、心のどこかでこう考えているのが当たり前、
こうするのが当たり前、そう思っている。
毎日毎日、相手と自分の考え方や物事のやり方、
行動や選択の理由やあるいは発想そのものが違う、
なんて感じながら生活している人はどのくらいいるのだろう。
まあそういう人の大半はあまり心穏やかな生活を送れない気がするので
敢えておすすめはしないが。
しかし、そういったことに気づかないで日常を過ごしていると、
自分は普通で、相手も普通で、
だから自分と相手は同じ状況で同じことを考え、
そして同じように行動すると思うようにどんどんなっていく。
こういうと「いやそんなことはない」と否定する人もいるだろうが、
では相手が自分とは違う可能性を考えて本当に接しているだろうか?
自分ならこうする、自分ならこう考えるの押し付けは
日々過ごしていればそこら中にある。
無意識の下に押し付けられた当たり前は、
空気を読んで合わせられる。
押し付けた方はそれが相手と違うのだと気づくことなどないし、
押し付けられた方は合わせるべきことを覚えていくうちに鈍くなっていく。
自分が日々過ごす日常にすれ違いを見ているはずなのに、
それに気づかず、あるいは知らぬ間に消し去ることに慣れてしまった人は
どうしようもないほど多いと思う。
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