教育に何を望み、どう臨むか
私がしたいことは何なのかシリーズ、5つ目。
前作の「教育という趣味」の続きにも近い。
未読であれば、読んでもらったほうがわかりやすい部分も少しあるだろう。
教育について色々と考えている人はおそらくたくさんいるだろう。
趣味では済ませられないと感じる人もいるだろう。
教育の活動や研究、あるいは悩みや不安にはいろいろなジャンルがあるし、
全てが気楽に臨めるものではないことは想像できる。
それらの複雑怪奇な諸問題を教育のジャンルに取り込んでしまえる感覚は、
教育によってそれを救う手立てがあるはずだと信じられているからだろう。
その時、人は教育に何を託し、夢見るのか。
〇趣味であることは目的ではない
先日書いたように、私が普段すぐ考えるような教育として行う『行為』は
およそ趣味の範囲にある。
もちろんその『行為』は私にとって好ましく、
私にある種の面白さや楽しさ、喜びを与えてくれているだろう。
授業を考えて、それを実践できることはそれほど私にとって価値がある。
しかし、ただ私が楽しいからしていると言うつもりはない。
私だけが楽しく、受けている人達にとって無価値で、
何の面白みも価値もない時間を過ごさせてしまうことは本意ではない。
少なくともその予感や実感があれば、私も楽しめはしないだろう。
私が多くの人や子どもの時間を使い、
また影響を与える行為に安心して没頭できるのは、
それが相手にとっても無価値ではない、
と信じられる行為としてやっていられる時だけだ。
実際に何かを教えている時に、
この授業をして何になるんだろう?何が面白いんだろう?
なんて悩みを抱えている人もいるかもしれない。
そうなったら少なくとも私にとっては非常に悩ましい時間になるだろう。
〇教育への望み
私は、たくさんの個人の幸せを望むのに相応しい立ち位置だと考える。
教育は相手の幸せを願ってする活動である。
誰でも何でも叶えられるとはとても言えないが、
夢や理想を掲げて、楽しく、豊かに、幸福に、そうなればいいなぁ。
そうなってほしいから、何を実践していくのかを考える。
そのために必要だ、大切だと思えることを果たしていく。
そしてその手段として、
私はおそらく授業づくりや活動づくりがたまたま合っている。
今は滅多に機会はないが、それを実践するのも概ね性に合う。
学校では色々なことがあるだろうが、私の印象は
なんだかんだ言っても教師になったら1日の生活のメインは授業だ。
様々な必要性があって個別に対応することもあるが、
授業なら自分が担当していれば基本的には全員を相手にできる。
そこでどんなことを語り、伝えるかが最も大事だと思っている。
〇幸せであること
私は、人は基本的に幸せになるためにしか行動できない存在だ
と思っている。
(特殊な状況もあるだろうが)
何らかの不安や不満の解消だったり、
自分の願いを叶えるためであったり、
例えそれがいかに独善的であっても、自暴自棄であっても、
自分がそれをしようと思った瞬間がなければ行動になることはない。
もちろんその結果、幸せになれるかどうかはわからない。
そして、世の中には不仕合せがおそらくたくさんある。
なぜだろうか?
単純に言えば、
望まれる行動と望まれない行動が交錯しているから、だろう。
この不仕合せからは逃れられないのか?
もし全ての人が望む行動と望まない行動が統一されていれば
不仕合せなどないようにも思う。
ただそれは実現したとしても、
人々の価値観が画一化された、不気味な世界になる。
私も望んでないし、おそらく様々な側面から見てそれほど望ましくない。
(まあこれも不仕合せを生むかもしれないが。)
だから、その反対側を考える。
人の行動は色々だが、その理由は尚更人によって色々である。
よって、自分の考え方や振る舞い方のみを受け皿として
他者とわかり合うことは難しいこともある。
国や文化や生い立ちが違えば、なおさらそうなりやすいだろう。
それでも理想的に書くならば、
自分とは異なる行動を許せること、望めるようになることで
解決に向かいたい。
もう少し加えれば、
その行動についての価値観を互いに調和させていけるならなおよい。
それですべての不仕合せを無くすことができるとは思わないが、
丁寧にその度ごとに対処していく、
ひたすら地道な時間こそ適切だと考える。
自分の味わった不仕合せを繰り返すことほど愚かなことも中々ない。
〇自分にあるものもないものも見つめる
自分がわからない、知らない、理解できない対象について
目を閉じず、耳をふさがず、自ら触れて考える。
自分のわかる、知っている、理解できる対象について、
そうだと思い込まずに気を緩めない。
(自己紹介への抵抗で似たようなことを書いたかな?)
こういったスタイルは完成を見ることが難しく、辛く感じる人もいる。
はっきりとした答えを示して安心させてほしいなんて願望はありがちだ。
しかし、誰かが出した答えやつくったルールを知ってそれを守ることは、
必要な場合もあるがただ身を委ねるには不十分だ。
どんな答えもルールも時代遅れにはなり得る。
自分と自分の生きている身のまわりの世界がどんな状態で、
より幸福であるためにどうしていくのか。
考えることに慣れていないとすぐに誰にでもできることではない。
不仕合せはあるだろうが、だからこそわかることもたくさんある。
誰かと一緒にいれば、不仕合せはあるほうが自然だろう。
若いころにその不仕合せを少しずつ積み重ねられるようにするのは
例えば学校やそこにいる先生の役割にもなるだろう。
喧嘩した、先生が気に入らない、
勉強がわからない、うまく声をかけられない、
冷やかされた、みんなの前で失敗した、
宿題がめんどくさい、100点取りたい、
怒られたくない、褒められたい、
まあいろいろなことがいくらでも起こる。
自分の願いとその周りに起こり得る不仕合せや、
それを同じく不仕合せとする人や不仕合せとしない人の存在。
逆に自分が不仕合せとしないことで
悩む人や辛い思いをする人もあるだろう。
例えば義務教育で学校に9年間通ったとして、
数え切れないほどの不仕合せに出会うだろう。
苦しんでほしいとは思わないが、現実を認めていくことは重要だ。
そしてそれ以上に世の中は広く、
すべてを知り、味わい尽くすことは誰しもにとって難しい。
学校でできないこともたくさんある。
出会えない価値観もある。
先生もいろいろだ。
私と同じ考え方や授業スタイルではない人はたくさんいるし、
誰もが同じような授業をする必要があるとは必ずしも思わない。
でも、そういうことについて考えられる授業は
増えてもいいと思っている。
自分と他者と対象(教材)の間をウロウロしながら
考え、悩み、迷い、ほんの小さな手応えを積み重ねていく。
それが何になるの?今日は何の勉強をしたの?
これはそんな質問には答えられない。
見つける努力はあってほしいが、聞かれて答えることではない。
その答えは、自分の中で根付かせて考えて生き抜いた先に、
自分にだけわかる答えがあるかも、程度だ。
もしその質問に誰かが答えを教えてくれることがあったとすれば、
それは幻である。
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