妬まない理由
妬む
という事をテーマに友人達と話をした。何で人は誰かの事を妬ましいと思うのかということについて考えた。
そもそも私の中には妬むという概念はそれほどないように思う。妬むという気持ちを持った記憶はない。
すごいよなー
いいなぁー
と思うことはあるものの、それが妬ましいという感情にまではならないように思う。
改めて考えると、妬むということは一体どういう事だろうなと思い、ググってみた。
他人が自分よりすぐれている状態をうらやましく思って憎む。
-デジタル大辞典
うらやましいと思うことはあるかもしれないが、憎むまでは行かないように思った。
ではなぜ憎むまで行かないのか。
そもそも私はあまり他人と比較をしていないんだと思った。常に自分が好きな私。何があっても基本私が好き。一時期鬱状態だった時はいざ知らず、基本は何があろうとも自分が好きなのである。
だから、他人が自分より優れているとすらあまり思わない。
もちろん私より優れている人はたくさんいる。しかし一部として比較しても意味がないように思っている。だから一部分を取って比較していないのだ。
光があれば影がある。一部分は優れていても全体としてどうだろうかと捉えた時に、やっぱり私は私が好きだというおめでたいやつなのである。
そう考えると恵まれているからだろうという人がいると思う。恵まれているのかもしない。恵まれているのかもしれないが私は結構闇がいっぱいだ。
闇いっぱいだけど、闇の部分も含めて私が好きだ。
友人と話をしていて、自分の事が好きだということはすごい事だという話になった。大抵の人が自分が嫌いだと思ったり、自分を認める事ができないという気持ちを持っているというのが彼女の考えだ。
いわば自己肯定感が低いという事である。
自己肯定感が高いのは家庭環境だというのが彼女の考えだった。それに対してわたしは疑問を抱いた。
わたしは虐待サバイバーだ。
お前はダメだ、おまけはいる価値がないと言われて育った。
しかし私は自分が大好きであり自己肯定感が高い。
だから彼女がいうことに疑問を抱いたのだ。
彼女曰く、自分の親も自己肯定感が低かったとのこと、だから自己肯定感は親の育て方はもちろん、親自身が自分の事をどう思っているのかが重要だという話だった。
親について考えた。私の親は自己肯定感が高い。特に父親は自己肯定感が高いように感じた。実際は違うかもしれない。あまりにも偉そうにしているので今思うと自己肯定感は低いのかもしれないが、よく言っていたのは
わしほどすごい人間はいない
わしほどええ人間はおらん
という言葉だ。いつもワシは1番だという話だった。母親も自己肯定感が低いタイプではない。周りには流されない。ただ吐口として私を何かしらどつき回していたが、基本自分はなんでもできる、何させてもすごい。そんな事をよく言っていた。
夫婦は正反対である方が長続きすることように思う。また正反対の夫婦が多いように勝手に思っている。しかし私の両親は基本そっくりだ。
2人してよく喋る。2人して自己肯定感が高い。もしかしたら自己肯定感は遺伝なのかもしれない。
改めて考えた。私は小さい頃から自己肯定感が高かったのかと。改めて考えるとそうではなかった。幼少期の私は自分が嫌いだった。そんな私が自分を好きになって自信が持てるようになったのは素敵な勘違いをしだしてからだ。
私はある発表会で褒められた。そこから私は素敵な勘違いをした。私はもしかしたらすごいんじゃないかと。
そこからその事について練習した。納得いくまで練習した。色んなコンテストに自分で申し込んだ。結果は散々だったのに、自分はダメだではなく、自分を評価できないということは評価基準が違っていただけと認識していた。私が劣っているとは思いもしなかった過去の私だ。
言えることは素敵な勘違いをしたということと、自分が納得するまで練習をしたという事だ。
それが私の自己肯定感につながっている第一ポイントだと思っている。
遺伝はあるかもしれない。でも自己肯定感は遺伝だけではなく、日頃の考え方、捉え方と、行動の仕方によって変わるように思っている。
私にとっては当たり前に思う、私が私を好きな気持ち。そんな事柄は大きな強みになるのかもしれないと改めて思った。
誰しもどんな人であろうとも生まれてきた意味があるのではないだろうか。そして強みはそれぞれ違う。自分が劣っているところと誰かの優れているところを比べても仕方がないのではないか。
だからこそ、自分の強みを理解することは大切であると私は思う。